1/1

11人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

自ら吐いた血で赤く染まる中 朦朧としてゆく意識・・・ そして 気付けば染み一つ無い白い壁が目に映り 僕を呼ぶ櫻井医師の声が遠くから聞こえて来た。 ―徒花― 「・・・・夫・・・人・・・・・  壬生・・夫人・・・・・夫人」 「ここは・・・」 「お気づきになられましたか・・・ここは病院です。  夫人は血を吐かれてここへ運ばれたのですよ。  ですが御安心下さい。  夫人の事は私が信頼の置ける  僅かな医師だけにしか知らせておりません」 「・・・・・・」 「夫人・・・・・夫人の御身体は思っていたよりも悪く  直ぐにでも手術が必要です。  私は内科医ですからやはり手術は  外科医の高峰医師にお願いした方が宜しいかと・・・・・・」 「高・・峰・・・・・」 「そうです。  どうしてもお嫌ですか?」 「・・・・・・」 「一刻も早く手術をしなければ夫人のお命が・・・・・・」 「分かりました。  では・・・高峰医師に私の命をお預け致します」 「それは良い御判断です。  直ぐに高峰医師を呼んで参ります」 そう言い残し 櫻井医師は慌ただしく手術室を後にした。 それから程なくして櫻井医師が戻って来た。 「夫人、間もなく高峰医師が手術の準備をして此処に・・・  もう大丈夫です・・・・安心して我々にお任せ下さい」 ・・・あの方がここへ・・・ あの方に再びお目にかかろうとは。 もう一度あの方にお逢い出来るのならば せめてこの姿を・・・ あの方に初めてお逢いした時の姿にしたい。 「何をなさるのですか!」 傍にあったメスを手に取り 髪を剥き始めた事に驚いた櫻井医師が 慌てて僕の手を止め様とした。 「大丈夫です。  髪を剥くだけですから」 「ですが、夫人・・・・・」 「どうか、私の好きにさせて下さい。  髪を短くしたいのです」 「・・・・・」 櫻井医師と助手であろう若い医師が見つめる中 僕は髪を短く剥いた。 あの方の瞳にもう一度僕が映るのならば あの時、お逢いした姿でいたかった。 女の姿をした僕では無く ありのままの僕の姿でお逢いしたい。 「もう宜しいですか・・・・」 僕が髪を剥き終わるのを待って櫻井医師が声をかけた。 「はい・・・」 「では、準備を始めます。  夫人、これをお飲み下さい」 「これは・・・」 「麻酔薬です。  夫人の手術は胸を開いての手術になります。  ですからその間はこの薬で少し・・・」 「嫌です」 「何を仰るのですか?  これを飲んで頂かなくては手術が出来ません」 「嫌です」 「夫人、この薬は怖い薬ではありません。  ただ少し眠くなるだけで・・・・」 「私には心に一つ秘密があります。  眠り薬はうわごとを云うと申すから  それが怖くてならないのです」 「何を仰っておられるのですか?  夫人は今から胸をお切りになられるのですよ。  少しでもお動きになられたら・・・・」 「いえ、私はじっとしております。  動きませんからどうかこのまま切って下さい」 「しかし・・・  痛みは我慢できるものでは・・・・・・」 「かまいません。  痛うはありません・・・・・・  メスを握るのは高峰医師ですね」 「そうですが・・・  夫人、あなたのご病気はそんな手軽いものではありません」 「その事は存じております。  ですが少しも構いません」 「仕方が無い・・・君、夫人を」 助手の若い医師に櫻井医師が僕を抑える様にと目で合図をする。 僕は櫻井医師をきつく睨み、 そのまま視線を逸らさずに言葉を綴った。 「どうしてもお聞きになっては下さいませんか。  れでは今ここで私は舌を咬みます」 「夫人!」 僕は運び込まれた際に着替えさせられた 白い着物の襟を自ら広げ胸部を露にした。 「切られても痛うはありません。  少しも動きませんから、大丈夫です。  このまま切って下さい」 僕の言葉に室内は静まり返った。 その瞬間 扉が開きあの方が手術台に横たわった僕の元にゆっくりと進み 『メスを』と一言発した。 「高峰くん、君!」 まるで櫻井医師の声等聞こえていないかの如く 貴方はもう一度低い声で言う。 「メスを」 「は・・い・・・・・」 助手の若い医師が少し震えながらメスを手に取り渡す。 「先生、このままでいいんですか?」 「ああ、いいだろう」 櫻井医師も若い医師ももう何の言葉も発しなくなり 室内には貴方の声だけが優しく響いた。 「髪をお切りになられたのですか?  あの時のあなたのままだ・・・・・・」 そう言って愛しむ様な眼差しで僕を見つめた。 やはり貴方は・・・ あの時の僕を憶えていておいでだったのだ。 たった一瞬すれ違っただけの僕を・・・・・。 「夫人、私が全て責任を負って手術します」 「どうぞ」 頬が淡く紅色に染まるのを感じながら貴方を見つめた。 胸に鋭い痛みが走る。 貴方を想う赤い血が胸から流れ 白衣を淡雪の中に咲いた赤い椿の様に染めていく。 貴方の手にしたメスが胸の中に深く達っそうとした時 僕はその手に触れた。 初めて触れる愛しい方の温もり。 その温もりに触れ胸は苦しく唸り 僕の顔は切なさで歪んだ。 「痛みますか?」 優しい貴方の声。 優しい貴方の瞳。 貴方の全てが愛しく切ない。 「いいえ。  貴方だから、貴方だから・・・・・」 僕はそこまで言い メスを握った貴方の手を僕の胸に引き寄せた。 「でも、貴方は・・・  貴方は・・・僕を知らない・・・・・」 僕は貴方が手にしたメスに片手を添え みぞおちから胸にかけて深くかき切る。 薄れていく意識の中、貴方の声が聞こえた。 「忘れません」 貴方に初めてお会いしたのは十年も前の事・・・・・。 春間近 淡雪が庭園の芝生を白く飾っていた。 たった一瞬 貴方のお傍近くを通り過ぎただけなのに 僕は貴方をずっとこの十年間忘れられずにいます。 そう・・・・ 忘れたくても忘れられなかったのです。 それは僕にとって初めての・・・・・。 僕は幸せだった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加