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私には心に一つ秘密があります。 眠り薬はうわごとを云うと申すから それが怖くてならないのです。 ―徒花― 貴方に初めてお会いしたのは十年も前の事・・・・・。 春間近 淡雪が庭園の芝生を白く飾っていた。 たった一瞬 貴方のお傍近くを通り過ぎただけなのに 僕は貴方をずっとこの十年間忘れられずにいます。 そう・・・ 忘れたくても忘れられなかったのです。 それは僕にとって初めての・・・・・。 「どうしたのだ?」 「・・・・・・」 「何を考えている・・・・・?」 「いえ、何も・・・・・」 「そうか・・・・・」 伯爵家へ嫁いだ姉が亡くなって六年。 姉が亡くなった時 伯爵は何故か僕を求めてきたのだった。 それが何を意味するのかを知るまでに そう時間は必要としなかった。 脳裏に浮かぶ もうこの世にいない筈である姉の・・・ 哀れんでいるのか 蔑んでいるのか どちらとも取れぬ瞳の中に 言い様の無い深い哀しみを感じながら 僕は初めて伯爵に抱かれた。 男爵とは名ばかりの真木家にとって 壬生家からの援助が無くなる事を恐れた父は 僕を欲してきた伯爵に 事無きを得る為 僕を伯爵へ差し出したのだ。 伯爵と姉の間には八歳になる双子の息子がいる。 甥にあたる二人を今では僕が実の息子の様に育てていた。 本当の母親である姉を幼い頃に亡くした二人は 母親の事等記憶の片隅に押し寄せられてしまっているのか 僕を本当の母親と想い慕ってくれている。 伯爵が僕の全てを奪った日から 伯爵家の対面を保つ為にと 僕は後妻として伯爵家に仕える事になった。 僕が男だという事を知るのは 伯爵家のごく僅かの使用人と 僕が幼い頃から傍に仕えていてくれた乳母だけである。 短かった髪も結うに事足りる程までに伸び その髪は・・・ 僕が僕で無くなった日からの年月の重みを感じさせていた。 僕から私と言う様になってもう六年・・・・。 寂しいとは思わない。 僕がこうして伯爵のお傍にいる事で この身が父や母を助けられているのだから。 なれど・・・・・ 僕は女学院卒業後直ぐに伯爵家へと嫁ぐ事が決まった姉と、 二人だけで歩いた御所近くの庭園での事を思い出していた。 その時にすれ違っただけのあの人の事を・・・・・。 僕がまだ僕であった頃。 綺麗な横顔のあの人を・・・・・。 僕はこの十年間、彼の面影を忘れた日は無かった。 これが恋というものなのだろうか・・・・? 恋をした事の無い僕には分からないのだけれど・・・・・。 「風が強くなってきた様だ。  さあ、中に入ろう」 「はい・・・・・」 「今日は病院から先生が来てくれる」 「私は大丈夫ですから・・・・・」 「何を申すのだ?  そなたに何かあれば私は生きてはいけない」 「・・・・・」 「我侭を言わずに先生に診てもらってくれ」 「はい」 数ヶ月程前から食欲が無く ここ数日、胸の痛みを感じていた。 それを心配した伯爵が医師を呼んだのだ。 伯爵家の主治医である櫻井医師は 僕が男であるという事を知っている数少ない中の1人である。 姉が亡くなってから神経質になっているのか 伯爵は僕の体調が少しでも優れないと 直ぐに大学病院から櫻井医師を呼んだ。 僕が病院に診察にいけない事も重なってなのだろうが 僕にとって診察されるのは憂鬱な時間でしかなかった。 伯爵以外の前で 男としての肌を見られるのは僕にとって苦痛でしかない。 髪も長く伸び 顔には化粧を施し どこから見ても女にしか見えない自分が 男としての身体を他人に見せなければならないのだから・・・・・。 自室に戻ってから半刻が過ぎた頃だろうか・・・ 櫻井医師と供に部屋に入って来たもう一人の医師を見て 僕は思わず息を呑んだ。 「貴方は・・・・・」 僕は驚きを隠せなかった。 「本日は外科の高峰医師も御一緒してもらいました」 昼下がり 櫻井医師の声だけが 静かな部屋の中で僕の耳に妙に響いて聞こえた。
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