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一匹のセミ
お題:免れた土
「どうか、やめてくださいませんか?」
そう地面の下から声がして年老いた従業員は危うくシャベルを落とすところだった。声がしたので、てっきり人かと思ったがそこには一つのセミがいるだけである。
「どうか、やめてくださいませんか?」
セミが再度そう言うので、従業員は周囲を気にしながらもしゃがんで
「それはどうしてかね」
そう、尋ねる。
「この下には私の子供が、いづれの子孫が眠っておりまして。ココにコンクリイトを流されてしまうと、私の子や甥っ子や孫は、そのまま窒息してしまうんですよ。何年も眠って眠って、そのまま恋すら知らずに永眠だなんて、悲しい限りではございませんか」
それは確かにと老いた従業員は思う。
「だけどなあ、セミよ。わしらとて生活はあるんだよ。ここにできるのは、一つの老人が住むところで、ここに住めなきゃ家族に蔑ろにされたまま一生を終えちまうんだ」
「難しいことを仰られますね。それは、家族なのに起きることなのでしょうか?」
「詳しいことは知らなんだ。いるだろう? 頑固ジジイや小根の腐ったバアさんや、その逆も然りだ。そうして住めないから新しく作るって市長が言っているのさ。それに、セミ。お前が文句を垂れるならはしっぱのわしじゃなくて、それこそ市長に言うべきことじゃないのかね」
「私は残り数時間ともありゃしませんよ」
セミは、そう言いながら羽を弱々しく動かす。
たしかに、木に登っていればいいのに、このセミときたら無様に地面に転げたまま一向に動こうとしない。
ただ、黒々とした瞳が一心に老いた従業員を見つめている。
「どうにかできたら良いかもしれないが、決めるのはわしではないんだよ。こうしてお前と話をしているだけでも、きっと始末書を書かねばならんのだから」
「人間というのはよほど面倒くさい生き物なのでしょうね」
セミはそう言いため息をつく。
「私らは幼い頃は地面の中で暖かく生きましょう。上からの音を聞きながら「外はどうなっているかしら?」と。想像を膨らませたものでした。地面から出てからはずっと子孫繁栄のために喉を擦り切らせて延々鳴いているのです。それがどうも寂しくて、哀れで、次はニンゲンに生まれたいとカミサマにお願いをしようと思っておりました。けれど、そうではないと思い知らされましたよ」
「何も悪いことばかりではないけれど、こればっかりはどうもいけないのだよ。けれど、どうだろうねぇ、お前たちはどこまで地面にいるんだい?」
「それがというと分からないのです。我々はこうも小さいものだから脳だってうんと小さい。どこで産んだかも、生まれるかも見当がつきません。だからこうして直々にお願いしにきているのですよ」
「それは、ますます厄介だな。他をあたった方がよさそうだ」
「私はもう持ちません。けれど、どうしようもない問題があるならば、それは仕方がないのかもしれませんね」
ヴヴ……。と、羽を二、三度鳴らしセミは鳴かなくなった。
「おい、セミ。セミよ」
けれど、もう返事はない。
当然だ。相手はひとつの虫なのだから。
その数年後に建てられた老人ホームには大きな中庭が広がり太い木もいくつか植っている。
夏には蝉が鳴き、それはそれは入居者からも苦情もあがっている。
その苦情を「まぁまぁ」と嗜める老人は、どこか嬉しそうな優しい瞳で求愛を謳うセミたちを見つめた。
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