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 黒いSUV車が目の前に停車する。助手席側の窓が開き、翔太の顔が見えた。 「おはよう、薫さん、乗ってください」 「おはよう、今日はよろしくね」  薫が助手席に乗り込み、シートベルトを締めると、車は発進する。 「車は借りてきたの?」 「ええ、……友人にね。今日は使わないみたいですから」  翔太は運転しながら薫の質問に応える。しっかりと通った横顔の鼻筋を下へと辿っていくと、突き出た喉仏が声と共に綺麗に動いた。思わずその場面に見惚れていると、不自然にじっと見つめてしまう。視線に気がついた翔太に笑いを含んだ声で、何です、と尋ねられた。 「っ、何でもないよ」  薫は慌てて前を向いた。まだ心臓がドキドキしている。運転している今日の翔太はやけにかっこよく見えた。  梅雨が明け、季節は初夏だ。翔太との関係も順調に続き、一ヶ月を超えたところであった。  いつもは近場で会ったり、食事をしたりするだけだったのだが、今日は少し遠出をしようということになり、翔太には車を出してもらった。薫は運転免許すら持っていない。  行き先は山間にある隠れ家的な蕎麦屋だ。  言い出したのは翔太だった。友人がそこの蕎麦屋へ行き、店の雰囲気と味に惚れ込み、翔太も興味を持ったらしい。  それで薫を誘い、本日二人で行くことになったのだ。  翔太と遠出するのは初めてでワクワクしている。  運転している翔太へ、今度は気づかれないよう、横目でちらりと視線を寄越す。  黒いキャップをかぶっている。白色の半袖Tシャツからは日焼けした逞ましい腕が伸びていた。 (すっごくかっこいいな……、太い)  薫は自分の細い手首と翔太の男らしい手首を見比べる。  暑さが苦手なので、夏はあまり外には出ないようにしている。仕事の上でもデスクワークが多くなってきたから、運動不足に拍車をかけていた。 「……スポーツジムとか通ってるのかい?」  運転している翔太は、薫の問いに、ん、と相槌を打つ。 「行ってませんよ、でも毎日筋トレはしてます」 「えっ、そうなのかっ」  スポーツジムも行かずにその身体を維持するのは大変だろう。薫は思わず驚きの声をあげてしまった。  薫はスポーツジムに通うことさえ、三日坊主となった経験がある。トレーナーと二人で頑張るという決心しても、あまりの辛さに、最終的には通わなくなってしまったのだ。  誰の力も借りず、自らを律して、毎日筋トレを続けているなんて、本当にすごい、と思った。  服の上からでも、翔太の身体が引き締まり、筋肉がしっかりとついていることはよくわかる。  薫は自分の腹に服の上から触れた。 「僕も筋トレしてみようかな? ぷにぷにだし……」  筋肉はなく、なだらかな腹だ。柔らかな肉をつかむと、また太ったかも、と不安になってくる。もちろん翔太の腹についているであろう固い凹凸はどこにもない。 「そんな太っているようには思えませんけど……。今度、見せてくださいよ」 「えっ! 嫌だよ、せめて余計な贅肉を落としてからにしてくれ」  信号が赤になり、車両が停車する。翔太の視線は薫が触れている腹に注がれた。  何も見えていないはずなのに、見透かされているような気がして、薫は顔を赤くしながら両腕でそこを隠す。 「まあまた今度、ですね」  翔太が軽く今度、なんて言うので、薫も軽く、今度っていつだよ、と言おうとした。  しかし咄嗟に口籠ってしまう。そして、ぐ、と服の裾を掴んだ。 (そういえば、付き合って一ヶ月以上経つのにキスすらしてないんだよな……)  始まりは無茶苦茶だったとはいえ、薫と翔太の関係は良好だ。翔太は、恋人という存在に慣れていない薫のためにさりげなくリードをしてくれている。しかし薫が翔太よりも年上ということも慮ってくれているのか、やりすぎることもなく、引くところは引いてくれているのだ。  薫自身、翔太にはすごく惹かれている。好きだと思うし、翔太に大切にされて嬉しい。翔太のことも大切にしたいと心から思っていた。  しかしいまだに、二人の間に身体のふれあいはない。外で会うことが多いので、ハグすらない。以前、居酒屋の個室で手を握り合ったぐらいであった。  世間一般のカップルが付き合ってから、どのくらいでキスをしたり、性行為をしたりするのか、薫がこっそり調べてみた時、どれも大体一ヶ月ぐらいとか、付き合ってから三回目のデートの時に、だとか書かれていた。全てを鵜呑みにするわけではないが、映画やドラマを見ていても、それぐらいだと感じることが多いので、間違ってはいないのだろう。  翔太は今まで、一切そういう素振りを見せていない。もちろん薫もだ。薫の場合はどうやってそういう雰囲気に持っていけば良いのかもわからないし、年上らしくホテルに誘うなんてこともスマートにできる気がしない。  あえて避けていた事柄であった。 (腹が見たいって、冗談っぽく言ってたけれど、そういうことなのか?)  真意はわからない。薫の考えすぎ、と言われてしまったら、それで終わりだろう。しかし腹筋を見せる見せないという話どころか、バーでみずきが言っていたように、タチかネコか、という話をしてもおかしくはない時期に来ているように思える。  バーでみずきとの会話や一悶着を見ていて、薫が性的なことに不慣れなことを翔太はわかっているので、様子を見ている可能性もあった。  ならば、ここは薫から翔太をリードしなければならないのではないだろうか。  善は急げ、だ。  すでに信号は青になり、翔太は運転に集中している。もうすぐ高速道路に入るところだ。  薫は少し迷ったが、思い切って口に出した。 「……僕のお腹、触るかい?」  薫の言葉に翔太の眉間に皺が寄っていく。少し時間が空いた後、翔太から返事が来た。 「今は触りませんよ、高速に入るんで、シートベルトが外れないか、チェックしてくださいね」 「……はい」  ピシャリと拒否される。車内に変な空気が流れ、薫は後悔した。翔太に言われた通り、シートベルトのチェックをする。  自分でもおかしなことを言ってしまった、と反省した。 (こういうところがスマートじゃないというか、不慣れ感満載というか……)  しかしここで諦めるわけにはいかない。薫だって翔太を満足させたいのだ。それには絶対に身体の関係だって必要不可欠だと考えている。  それに薫だって、翔太に触れたいのだ。  性行為は自分から誘いたい、性行為をするからには翔太を満足させたい。 (僕と付き合ったことを後悔させたくないし)  あの会見の時の夏彦の笑顔を思い出しながら、薫は決心した。    山間と言いつつ、住宅街に建てられている。  客席はテーブルが三つしかないので、一度にたくさんの客は入らない。  翔太と薫は一番乗りであった。事前情報として、土日や祝日はかなり混むと聞いていたので、何と開店の三十分前には着いていたのだ。  しかし、やはり早すぎたようで、誰も他の客はおらず、二人は扉の前で並んでいる。  しかし早く着きすぎたことを気にならないくらい、薫ははしゃいでいた。 「ここ、夏彦が主演していたドラマのロケ地じゃないか!」  店内の、一番左端のテーブルで、夏彦が蕎麦を食べるシーンがあったのだ。ドラマ自体の評判はよくなかったが、蕎麦を食べながら生き別れになってしまった娘のことを思い、ボロボロに泣くシーンが印象的だったので、薫はよく覚えていた。 「ええ、店の名前で気づかれるかな、とも思ったんですけど。何とか上手いサプライズになりましたかね?」 「全然気が付かなかったよ、ありがとう」  翔太のこういう気遣いが薫にとっては本当に嬉しい。 「あそこで食べたいんでしょ? いきなり泣き出さないでくださいね」  夏彦が座っていたテーブルを外から指示し、翔太は悪戯っぽく言う。 「泣いたりはしないよ……、でも一番乗りで良かった」  薫がもう一度、外からそのテーブルを眺めていると、さあ、と風が吹き、木の葉が揺れる。  初夏にしては冷たい風だ。薫は肩をすくめた。 「何だか肌寒いな……、上着を取ってくるよ」  ここの近くには有名な避暑地がある。初夏でも風が吹くと、寒い思いをするのだ。  なので薫は春用の、ミントグリーンのカーディガンを用意していた。  翔太に車を開けてもらい、後部座席に置いた手提げ鞄を漁る。 「あれ? ないな」  奥に仕舞い込んだ記憶はないが、鞄の底の方にまで手をがさぐる。しかし目当ての感触はなく、目視で確認しても、カーディガンは入っていなかった。 「上着、ないんですか?」 「うん、忘れてきたみたいだ。開店まであと十五分ほどだから我慢するよ」  おそらくリビングの椅子にかけっぱなしだろう。忘れてはいけない、と思って、昨晩からそこに置いておいたのだが、鞄に入れるのを忘れてしまっていた。  これは仕方ない。できるだけ日向の方で待っていれば、風が吹いても寒くないだろう。  薫が車から離れようとした時だった。 「これ、どうぞ。ぶかぶかかもしれないですけれど」  ふわりと肩に何かかけられる。爽やかな香りの中に少しだけタバコの香りもして、翔太がいつも着ていたウィンドブレーカーだとわかった。  袖口を見てみると、有名なスポーツブランドのロゴが入っている。黒と白の切り替えがおしゃれなものだ。 「薄手だし、暑くはないでしょう」 「髙階くんは寒くないかい?」 「全然、平気だから薫さんが着ていて下さい」  そう言うと翔太は再び店の前へと並びに行く。  ありがとう、とお礼を言ってから、薫はウィンドブレーカーに袖を通す。  やはり翔太のサイズに合わせてあるから、薫が着るとひとまわりぐらい大きい。  袖口は指先が見えるか、見えないかぐらいになってしまっているし、肩周りも布が余っている。  これだけでも翔太と薫の体格差がわかってしまうだろう。しかし全然嫌な感じはしなかった。むしろ、翔太に包まれているような気がして、薫はドキドキした。  かすかに香るタバコも良い。  薫の前で翔太が喫煙することはない。しかし助けてもらった時、翔太からはタバコの香りがした。  翔太は喫煙者だ。しかし、薫が非喫煙者であることを見抜いていて、気を遣ってくれている。  別にタバコの匂いが特別嫌いなわけではない。むしろ、翔太からすると思うと、好きになりそうだ。 (今度、気を使わなくても良いよって言ってみようかな?)  そしたら目の前で吸ってくれるかもしれない。きっとタバコを吸う翔太も様になっているだろう。  何だか締まりのない顔になってきたのを感じ、慌てて袖口で顔を覆う。すると勢いよく匂いを嗅ぐ羽目になってしまった。 「薫さん、もう店を開けてくれるみたいですよ」  後ろから翔太が呼んでいる。薫は締まりのなくなっている顔を思い切り引き伸ばした後、今行くよ、と返事をした。
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