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 驚きで声が出そうになり、慌てて口元を押さえる。座席から腰が浮きそうになり、それを阻止したためか、中途半端に身体が前へつんのめってしまいそうになった。  おかしな動きをしているため、周りから訝しげな視線を向けられ、かなり恥ずかしい。それを誤魔化すように蔦野薫は小さく咳をして、電車の座席に座り直した。  握ったスマートフォンの画面へもう一度視線を向ける。そして薫が変な動きをするはめになったネットニュースの記事のタイトルをもう一度、目で追った。 『俳優・夏彦、同性婚をカミングアウト』  震える指で下へと記事をスクロールする。先ほどはタイトルを見ただけで、かなり動揺をしてしまい、記事の本文を読めていなかったのだ。  本文には、俳優の夏彦がアメリカ国籍を取得し、パートナーであるアメリカ人男性と先週、海外で挙式を行ったことが書かれていた。  もう一度、記事の上の方へとスクロールし、大きく掲載されている夏彦の顔をまじまじと見つめる。  写真の中の夏彦は薄く微笑んでいる。はにかむような表情に緊張感はなく、むしろ清々しそうだ。  薫はこの、ネットニュースで話題になっている俳優・夏彦の大ファンだ。四年前に彼が出ている映画を見て以来虜になり、憧れを持つようになっていた。それからこまめにメディアの情報はチェックしているし、舞台も欠かさず観劇するようにしている。  落ち着いた、包容力のある大人の男という雰囲気で、そこに惹かれていた。映画、ドラマ、舞台とさまざまな場面で活躍している夏彦が自分と同じ同性愛者であったことに薫は多大な動揺を覚えている。 (てっきり綺麗な年下の女優さんと結婚するものだと思っていたよ……!)  夏彦に対して、ときめきや憧れはあるが、積極的な恋愛感情はない。いつか女性と結婚する日が来るだろうと覚悟していたし、その日を祝福できるようなファンでありたい、と思い続け、夏彦が結婚発表をした時のシミュレーションまでしていた。しかし、この動揺ぶりでは、シミュレーションは全く意味がなかったと言わざるを得ない。  他に何か情報はないかと思い、目を皿のようにして、画面を更にスクロールする。慌てていたので、出てきた関係のないブライダルの広告を押しそうになった。  ページ下に会見の映像もあった。薫は急いでイヤフォンをはめ、視聴する。  映像では夏彦が記者からの質問に答えていた。相手は一般の方だそうで、仕事などは一切非公開にする、と初めに宣言している。  とある記者から『まだ自身の性的嗜好を隠す方が多い中で、どうしてカミングアウトに踏み切ったのか』という質問が振られた。  その質問に対し、夏彦は少しはにかみながら、『人生は一度きりです。僕は後悔のないように生きたいと思っている。ここで彼との結婚を皆さんに報告できなかったら、いつか後悔すると思い、このような場を設けさせていただきました』と静かに応え、映像は終わった。  考えがまとまらない。感情も追いつかない。  薫は半ば放心状態で、スマートフォンをスーツの太ももの上に置く。画面はすぐに真っ暗になった。 (後悔か……)  薫はゲイだ。男性しか恋愛対象ではない。しかしそれを誰かに打ち明けたことはなく、生まれてから三十一年間、恋人がいたこともない。  今まで恋愛なんかしたことがない。せいぜい良いなと思う男性に淡い恋心を抱き、それを告げることもないまま、終わっていくだけだ。ゲイの知り合いもおらず、そういったコミュニティへ積極的に関わっていく勇気もない。  それで良いと思っていた。ゲイであることを自覚した時、同時に失恋した薫にとって、恋とは自覚した瞬間に終わるものだったからだ。  想いが深くなる前に自らシャットアウトして、その人の幸せを祈るだけ。夏彦にもそういう態度でファンをし続けてきた。  しかし、今、どうだろう。  胸が痛く、電車内ということで堪えているが、目頭がどんどん熱くなってきている。帰宅すれば、そのまま玄関で膝を抱えて年甲斐もなく、泣いてしまうかもしれない。  遠い昔に経験した失恋の時と同じ感情を覚えた。嫉妬めいた想いも感じる。相手はアメリカ人男性とだけ書かれているが、夏彦に『後悔したくない』とまで言わせたその相手を心底羨ましく感じた。  恋愛感情は抱いてはいけないと自分に言い聞かせていた。芸能人だから、とかそういう一般的な理論ではなくて、相手は異性愛者で、自分には手の届かない人だと思っていたからだ。  もう一度、会見の際の夏彦の言葉を思い出す。  夏彦は『後悔』をしたくなくて、アメリカ国籍を取得し、挙式をしたことやパートナーと入籍したことを世間に公表した、と言っていた。  その『後悔』という言葉が何に対しての後悔なのかは明言していなかったので、薫にはわからない。  ただ薫は、日本国籍を捨てることなんて考えたこともない。もし同性のパートナーができたとして、その夫、もしくは彼氏を職場や両親に紹介できる気もしない。  そもそも恋人を作ること自体ができもしない。  恋愛経験はゼロ。男性が好きなのに付き合ったこともなくて、いつも妄想するばかりだ。  果たしてそれで自分は『後悔』しないのだろうか。  そして、挙式や結婚ということを考えると、今日の職場での出来事を思い出す。  薫は市内の会計事務所で公認会計士として働いている。  大学三年生で試験に合格し、卒業後にそのまま公認会計士として就職し、現在で八年目になる。  黙々と数字と向き合い、在庫を確認したり、書類を整えたりするような仕事だ。薫のしていることは決して派手な仕事ではない。  だが、その堅実な職務態度は一定の評価を得ていたようで、この前、監査チームのリーダーに選ばれた。  四月下旬から五月下旬は特に忙しい時期であった。薫の務める事務所が持つ会社は三月決算のところが多い。  そして本日、ようやく繁忙期を終え、皆に労いの言葉をかけていたところ、男性部下から結婚の報告を受けた。  きっとこの繁忙期が終わるのを待って、彼は薫に報告へ来たのだろう。  おめでたい出来事だ。チームで彼にちょっとしたお祝いをして、薫は上司らしく早めに会社を出た。  結婚を報告してきた部下は二十代と若く、仕事にも精力的に取り組み、いつかは地元に帰り、実家の会計事務所を継ぎ、大きくしたい、と語っていた。  一方、薫はもう三十路を超え、性的嗜好が理由で結婚もできず、仕事に対する野望も何もない。  そんな自分と、同性婚をカミングアウトした夏彦や、将来の展望を熱く語る部下をつい比べてしまう。  同性婚を世間にカミングアウトするというとても勇気のある行動をした夏彦は会見の間、終始嬉しそうだった。やっと皆さんにご報告をする決心がつきました、と清々しく、微笑み、肩の荷が降りたような顔をしていた。  結婚を報告してきた部下は挙式はいつにするとか、新婚旅行ではイタリアに行きたいとか、子供は二人欲しいとか、これからに対して明るく話していた。  腕時計を見た。時刻は午後九時を少し過ぎたくらいだ。  このままこの電車に乗り続ければ、家に帰り、夏彦のカミングアウトがじわじわと心に浸透してきて、ちょっと泣いた後、ベッドに入りぐっすり眠ることになるのだろう。そして変わり映えのしない休日を迎え、休日を終えると出社する。  しかし反対の電車に乗れば、繁華街の方へと向かうことになる。繁華街には都内とまでは行かないが、そこそこ有名なゲイタウンがある。 (後悔は、したくない……)  人生は一度きりなのだ。結婚や挙式なんてことも望まない。ただやっぱり、生涯で一人だけでも、想いを同じくする男性がいたら嬉しい。  ちょうど電車が駅に停車した。まだ自宅の最寄り駅までは三駅分ある。  薫は座席から立ち上がり、扉が開いた瞬間、勢いよく電車を飛び出した。
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