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「では、岸田さん、今日からよろしくお願いします。」
ごましお頭の几帳面そうな校長先生が言った。校長室の窓から見える校庭は、二十年前とまるで変わっていない。鉄棒とブランコの色が、昔はたしか青一色だったのが、今では明るい赤と黄色に塗られている、ただそこだけが違っているようだった。
母校の小学校の用務員の求人を見たのは、偶然だった。月に二回出る市の広報誌を何気なくめくっていたら、「募集」の欄に懐かしい母校の名前を見たのだ。十歳のときこの町に引っ越してきて、四年生から六年生までの三年弱、通った小学校だ。勤務条件欄を見ると、子供たちの休みに合わせて、長い夏休みがある。年末年始も休みだった。なんといってもそこに惹かれた。朝七時からと早いが、午後三時には勤務が終わるところも気に入った。
「いいんじゃない。やってみれば。」
夫も賛成してくれた。私は、結婚前は保険会社で働いていたが、飲み会の多い職場の雰囲気になじめずに三年で退職していた。結婚してからもいくつかパートで働いたが、どれもあまり長続きしなかった。いくつもの職場で失敗して、どうも自分は、他人のペースに合わせて動くということが苦手なのだと、三十を過ぎてようやくわかり始めた。思えば子供のころから、クラスでも浮いていることが多かった。
校舎内と校舎周りの日常清掃。公用車を使っての、役場と学校間の文書の逓送。勤務条件に心惹かれたのもあったが、この業務内容を読み、これなら淡々と働き続けることができるのではないかと思ったことも、求人に応募しようと思った動機のひとつだった。
求人欄に載っていた役場の教育課に電話したのが三月下旬だった。電話して翌日に面接、その日のうちに採用の電話連絡がきて、あれよという間に勤務初日の四月二日がやってきた。まだ春休みで子供たちのいない学校の校長室で、私は赴任してきたばかりの校長先生に挨拶をしたのだった。
もともと、会話は得意ではない。子供たちの話し相手をきちんとできるだろうか。先生たちとのコミュニケーションは大丈夫だろうか。不安はあったが、校長先生が優しそうな人だったので、とりあえずは安心していた。それに、職員室の教頭先生からさっそく、入学式に向けて校門と花壇まわりの草取りを頼まれてもいたので、初日から悩む暇もなく体を動かせるのがありがたかった。
軍手と鎌を持って体育館の方へと向かうと、スポーツ少年団の子供たちがバレーボールの練習をしていた。体育館の脇には大きな桜の木があって、そのまわりは花壇になっている。伸びてきたチューリップの芽が、雑草にすっかり覆われてしまっている。本州の北の方にあるこの地域では、桜の開花はまれに入学式に間に合うこともあるが、ほとんどの年は、入学式がすっかり終わったころに咲きほころぶ。いまも桜は固く蕾を閉じて、近づくとかすかに春の匂いをさせるばかりだった。
私が通っていたころもそこにあった桜の木。チューリップのまわりの雑草をきれいにしようと、その花壇の前に立った瞬間、私は何とも言えない懐かしい気持ちになった。多くの時間を、ここで過ごしたような感覚が、記憶の片隅にある。
(なんでだろう。遊具もなにもない、こんなところに?)
なんで私は、ここで多くの時間を過ごしたんだろう。古い記憶をあれこれ手繰り寄せながら、しゃがんで草むしりをしていると、頭の後ろから声をかけられた。
「先生、そこ、その桜の木の下、幽霊が出るよ。」
見上げると、体操着を着た三年生くらいの女の子が、体育館の小窓から顔を出してこちらを不安そうに見ている。
「幽霊?」
「うん。ちづこさんの幽霊。一人でそこにいるとね、あやとりしよう、って、おかっぱ頭の女の子が声をかけてくるんだって。ちづこさんは、手に赤いあやとりの糸を持ってて、誘いにこたえてあやとりをいっしょにやると、手首を切られて死んでしまうんだって。」
学校の怪談、というやつだろう。女の子の話のあまりの荒唐無稽さに、私は内心おかしくなった。手首を切られて死ぬだなんて。わかった、気をつけるね、と私があいまいな返事をすると、女の子はまだなにか言いたそうだったが、そのとき体育館の中で集合の合図のホイッスルが鳴り響き、女の子は心配そうな顔をしながらも、笛を鳴らした指導者の方へと走って行ってしまった。
しかし、ちづこ、というその名前に、私はかすかに聞き覚えがあった。自分が在校していたころも、あやとりのちづこさんの怪談を、学校の誰かから聞いたのだろうか?
*
勤務初日のその日は役場への逓送がなかった。私は校舎周りの草取りを続けた。私の心の中には、それまですっかり忘れていた、在校生だったころのいろいろな記憶がよみがえってきていた。もともと内気だったこともあり、転校してすぐのころは、毎日が心細かったこと。給食に出る魚が苦手だったこと。体育の時間に転んで、保健係のクラスメイトが保健室までつれて行ってくれたこと。ランドセルにつけていたたぬきのキーホルダーのこと。そんな些細な記憶がとりとめもなくあふれてくる。
そして、球技が苦手なのに、毎週水曜日の放課後にあるクラブ活動では、なぜかバスケ部に入れられてしまったこと。そのことをはたと思い出したのは、その日のお昼前、先生たちが連れ立って、近くのコンビニへと昼食を買いに行くのを見送った後のことだった。
*
事務室の自分の机で持ってきた弁当を食べるあいだも、私はいろいろなことを思い出した。
「岸田さん、ここに昔通ってたんですね。」
「歩いて通うんですか?お家、近いんですね。」
向かいの席に座る事務の二人が、親しく話しかけてきてくれたが、私の頭の中はバスケ部のことでいっぱいになってしまっていた。
物心ついたころから球技が苦手な私にとって、試合はもちろん、パスやドリブルの練習すら、かなりの苦痛だった。もらったパスを、うまく取れない。走りながら相手に投げる、ということがそもそもできない。ドリブルをしながら走ることもできない。自分がどこにいるのかわからなくてふわふわと浮いているような、おかしな感覚になってしまう。苛立つみんなの視線がつらかった。ある日先生から、「お嬢様みたいに澄ましてないで、一生懸命やってみようか。」と言われた。そんなふうにみんなには見えるのかと思って落ち込んだ。それきり、私はバスケ部をさぼるようになった。
さぼった私は、どこにいたのか?そう、体育館の脇の、あの大きな桜の木の下に隠れるようにして、私はその時間をやり過ごしていたのだ。先生の点呼の後にみんなと体育館を三週走り、そのあと私はトイレに行くふりをして、そのまま体育館を出て、桜の木の下へ行っていた。当時は、先生にばれずにやっているつもりだったが、今思えば、顧問の先生は気がついていただろう。
そして、そこで私は一人ではなかった。ある一人の女の子と遊んでいた。おかっぱ頭の、ちづこちゃん。
「わたしがここにいること、だれにもひみつだよ。」
初めて会ったとき、ちづこちゃんは、そう言ったのだ。ちづこちゃんが人ではなくて、学校に棲む幽霊のようなものであることは、ひと目見てすぐ分かった。体が半分透けていたし、短くかりあげたおかっぱの髪型も、着ている赤いセーターや山吹色の短いスカートも、テレビか何かで見たことのある、昔の女の子たちにとても似ていたから。でも、不思議と怖くはなかった。それよりも、クラブ活動の時間に体育館から逃げてどこにも行き場のない私にとって、遊び相手と居場所を見つけた嬉しさと安堵感のほうが、ずっと強かった。
ちづこちゃんと遊んでいるあいだは、ほかの子にも、先生たちにも、ぜったいに見つからない。そうなのだということが、なぜか私には分かった。ちづこちゃんはいつも手に赤いあやとりの紐を二本持っていて、一本を私に貸してくれた。そして、いろいろな形を私に教えてくれた。ほうきに、ゴム、さかずき、おつきさまに東京タワー。慣れてくると、連続技や二人あやとりも教えてくれた。水曜日、桜の木の下で二人で過ごす時間を、いつしか私は、楽しみにするようになった。
あやとりがすっかり気に入った私は、母から毛糸をもらって輪っかをつくり、家でも、教室での休み時間にも、ひとりであやとりをするようになった。
「あら、あすか。上手じゃない。学校であやとり、流行ってるの?」
母に聞かれても、私はちづこちゃんのことは決して言わずに、ただ一言、うん、と答えただけだった。秘密は守らなければならなかったから。クラスで流行っていると、母が独り合点して思ってくれているのは幸いだった。
「あすかちゃん、あやとり上手だね。私にも、教えて?」
ある日、休み時間に一人で連続技をしていたら、前の席に座るなつみちゃんという女の子に声をかけられた。内気で自分からは滅多にクラスの子にも話しかけない私にとっては、それは大きなできごとだった。
あやとりを教えるうちに、わたしとなつみちゃんは驚くほど、仲が良くなっていった。気がつけば、放課後や休みの日にお互いの家に遊びに行くまでに仲良くなっていた。今思い出してみても、それは奇跡に近かった。あんなに親しい女友達が私にできたのは、後にも先にも、なつみちゃんただ一人だ。
そしてある日のこと、私はついに、秘密をなつみちゃんに喋ってしまった。あやとりを教えてくれた、桜の木の下のちづこちゃんのことを。話す前に、だれにも内緒だよと言ったから、大丈夫。きっと、これなら、ちづこちゃんとの約束を破ったことにならないはずだと、軽く考えていた。だが、次の水曜日、いつものようにバスケ部を抜け出して桜の木の下へ行くと、もうそこにちづこちゃんはいなかった。取り返しのつかないことをしたんだと、そのとき私はようやく気がついた。
*
「あやとりのちづこさん」の話は、どうして広まったのだろうか。私のほかにも、ちづこちゃんにあやとりを教わったことのある子は、きっと、いるのだろう。何かの理由で居場所がなくて、隠れたくて、人目につきにくい体育館脇のあの桜の木の下にやって来た子供は、私のほかにも、いつの時代も、きっといたのだ。そういう子供たちに、ちづこちゃんはあやとりを教える。あやとりができれば、休み時間に一人で遊ぶこともできる。そして、あやとりがきっかけで、その子に友達ができることもある。
わたしは親しくなったなつみちゃんに、ちづこちゃんの存在を教えてしまった。きっと、ちづこちゃんにあやとりを教わったほかの子たちも、そうだったのではないだろうか。内緒だよと言いながら、桜の木の下のちづこちゃんの秘密を話してしまう。そうやって、独りだったこどもたちは親しい友達を作り、桜の木の下のほかにも、学校に居場所を見つけていく。
しかし、それが長い年月繰り返されるうちに噂は広まり、いつしか話に尾ひれがついて、ちづこちゃんは、子供をあやとりに誘っては手首を切り落とす、恐ろしい存在に変わってしまったのではないだろうか。
*
弁当のあと、私は学校じゅうの花壇をひとまわり見て、ふたたび体育館脇の、ちづこちゃんのいた桜の木のある花壇へと戻ってきた。午前中に、とりあえずチューリップのまわりの手前のあたりだけ、簡単に草むしりをしておいたが、今日はここを、徹底的にきれいにすることにした。東側にあるこの花壇は、午後は体育館の陰になり、四月はじめのよく晴れた日だと言いうのに、ここだけ薄暗くひんやりとして、おまけに丈の高い雑草が奥の方にたくさん生えて鬱蒼としている。これでは、怖い噂も立ってしまうだろう。子供たちが近寄らなくなって、ちづこちゃんはきっと、寂しがっているはずだ。
昔、秘密を友達にもらしてしまい、おまけにすっかり大人になってしまった私には、もうちづこちゃんは姿を見せてくれないだろうけど。今日から私、またこの学校に通うことになったよ。私の大切な居場所だったこの花壇。きれいにさせてもらうね。私は地面にかがんで草をとりながら、心の中ではそんなふうに、目の前の桜の木に語りかけていた。
*
どれほどのあいだ、夢中で草をとっていただろう。ふと顔を上げて校舎の大時計を見ると、時刻は二時五十分になっていた。勤務時間は三時までなので、もう事務室に戻らなくてはならない。慌てて立ち上がり、草でいっぱいになったごみ袋の口をしばり、花壇に背を向けて立ち上がると、視界が一瞬真っ白になり、何も見えなくなった。立ち眩みかなと思った次の瞬間、背中のうしろで、懐かしい声が聞こえた。
「あすかちゃん、ありがとう。」
驚いて振り向いたけれど、そこには薄桃色の蕾をいっぱいにつけた大きな桜の木が、静かに佇んでいるばかりだった。
―今日からまた、よろしくね。
私は口に出してそうつぶやいた。桜の木はそれに返事をするかのように、春風に吹かれて優しく枝を揺らしていた。
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