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サイコキネシス
数十分前まで、有馬小夜はただメンタルを病んだだけのリストカッターだった。ただし、先程のカットは「ためらい傷」どころではなく、手首を切り落とす、そのぐらいの勢いをつけてこの世界に別れを告げようと思っていた。
とはいえ、オルファの大ぶりなカッターナイフを使っても手首を一息に切断できるわけもなく、ためらい傷よりは深いけど、死には至らない程度の傷を二、三回つけただけに終わった。
なぜか血はバスタブのお湯に混じり合うわけでもなく、赤いガーベラの花となって文字通り咲いてしまったのだ。
自身の死を目の前に控えての幻覚、幻視だろうか。
浴室に持ち込んだスマートフォンからはシューベルトの「冬の旅」、フィッシャー・ディースカウのバリトンが流れている。風呂の湿気でスマートフォンが壊れようがもう死ぬ人間には意味がなかった。
小夜はいよいよ覚悟を決めて、カッターナイフを持ち直した。自殺が成功したとして、発見時に裸では恥ずかしく思い、彼女は通学している高校のセーラー服を着ている。
手首に刃先を当てたそのとき、小夜は自分の腕を操作している力に気づいた。負けじと小夜はさらに力を込めるが強い念力のようでなかなか最終のリストカットができない。
フィッシャー・ディースカウの歌が勝手に変わり、聞き覚えのない声がスマートフォンから流れる。
「今は駄目だ……今は……このような激しい自己否定の強い有馬小夜……きみにお願いしたいことがある」
誰? と小夜は訊き返した。
「自殺の前に暗殺してもらいたい標的がいるんだ」
「そんなのに興味はないんだけど」
「きみの自殺にも大いに関係する……とりあえずリストカットを今はやめて欲しい……ガーベラの赤い花が咲くだけだ……いいかい、移動するよ」
さまざまなグラデーションの緑色の光線が小夜の視界をいっぱいに満たす。
数瞬、視神経が高い負 荷でなにも見えなくなる──。
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