神殺し I

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神殺し I

 Fiat Lux(フィーアト・ルクス)。  旧約聖書の冒頭を飾るので有名な羅甸(ラテン)語の聖句だが、ある意味、光源は神からといっても間違いはないだろう。神の被造物である地上にしても、反射、透過、屈折、散乱などさまざまな光の形態がある。  神は果たして人間に、下級天使では決して選ぶことのできない「悪」の自由さえ与えたのか。  そして、今では金魚鉢を覗き込んでいるような態度で、人間の世界を見ているのだろうか。それとも作ったらただ無様な繁栄だけを初期値として放置しているのか。  放置であっても、光源が神である以上、そこには人間界から神に至る連結があるはずである──。  仮にそのイギリスの青年をロディと記すが、ロディは神が光を利用として万物を創造したと結論づけた。そして光で今も人間の世界と神がどこかで接点があるとしたら? そうなれば可干渉的(コヒーレント)な光の無限反射を神へ向けて撃てば神は死ぬのではないか──。  仮説は正しく、ロディは実際に神を殺した。  有馬(ありま)小夜(さよ)が暮らしていた西暦二〇二二年の日本でも、その影響は受けているはずである。心に開いた穴、生きている実感のなさ、真、善、美の力の低下……。  「でもそれはキリスト教世界の問題でしょ? 無神論者は、仏教は、神道は、イスラム教はどうなるの? それに、わたしは神社巡りが好きだから神道派よ。八百万(やおよろず)の神よ。わたしだって一柱(ひとはしら)の神と表現してもおかしくはないし」  そういうわけじゃないんだ、と「声」。
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