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完璧さは、人を追いつめる。限界ギリギリまで追い詰める。
ちょうどあたしの前で優雅に紅茶を飲む、ノト公爵夫人みたいに。
夫人はじろっとこっちを見た。
「いいですか、ロスシナー卿夫人。お教えいたしますが、正式なマナーではティーカップのハンドルに指を入れません。ハンドルは、“つまむ”ものです」
自分の指先をアピールしてる。
は? まさか、あたしにやれって?? いやいや、ムリでしょー!
それでも息をとめてカップをつまむ。指がプルプルする。つりそうだ。
指三本だけで、なみなみと入った紅茶をこぼさずに飲むなんて――ありえんわ、ほんまに。
公爵夫人が見てる……見てる……やだもう、ムリムリ! ああっ、カップがすべって……
バラ模様のティーカップが宙を飛んだ。
公爵夫人めがけて、まっすぐに飛んでいった。
ぐわっしゃーーーん!
三秒後、公爵夫人はテーブルから真っ白なナフキンを取って、ていねいに顔と髪を拭いた。紅茶でびったびた。
表情もないまま、コッチを見た。
「わたくしがあなたの教育係になりましょう。女王陛下主催のアフタヌーンティまで、あと十日。泊まり込みで、最低限のマナーをおぼえていただきます」
「ひゃ? ……ああああ、はい」
こわい、この公爵夫人。何を言われても逆らえないわ……。
ああ、貴族なんかと結婚するんじゃなかった。ずっと日本で、高野澄(たかの すみ)のままダラダラしていればよかった。
でももう仕方がない。
こうして、オニ公爵夫人との『十日間・マナーブートキャンプ』がはじまった。生徒はあたしひとり。地獄の特訓だ。
「ロスシナー夫人、椅子の背にはもたれません。自分の背中を、椅子の背と平行にするのです」
「……はひ」
「ソーサーは胸のあたりで持ちます。カップだけ持つのはマナー違反です。三段トレイに乗っているティーフードは下から順番にいただきます――上の段にあるフードを食べ終わったら、下に戻ってはいけませんっ!」
「……はぷっ はぷううっ!」
「会話は社交的に。宗教と政治については語りません。にこやかに――ロスシナー夫人、顔がひきつっていますよ」
「ほ……ほほほほ」
二日目の夜。夫人の大邸宅から逃げ出そうと、シーツで作ったロープを窓から垂らしたところを見つかった。
四日目の夜。広大な庭のバラ園で迷子になったところを、捕獲された。
六日目の朝、あたしはもう恥もなく、土下座して泣きついた。
「すみません、すみません。アフタヌーンティはあきらめます。あたしにはムリです。やめますううう」
ノト公爵夫人はシルクワンピースの袖を静かに撫でた。生地はぴかぴかで、シワなんてないのに。
「――では、離婚して日本に帰りますか?」
「それは、そのう……でも、こんなに厳しくしなくても」
「マナーはこの国の基本です。基礎もなしで十メートルの飛び込み台から、高飛び込みができますか?
私は貴女に、この国で生き延びていくサバイバル技術を教えているのです。
言われたことを守らずに自分のしたいようにやるのなら、今すぐ国へ帰りなさい」
えぐえぐ、とあたしは泣いた。
「帰れません。結婚するときに決めたんです。今度こそ理想の自分を目指すんだって、もう二度と自分自身から逃げないんだって、覚悟を決めたんです」
「あなたのどこに覚悟があるんですか。たった一週間で二回も逃げて――」
公爵夫人は立ち上がった。
「ロスシナー夫人。自分の覚悟を通しぬくか、尻尾を巻いて逃げ出すか。決めるのはあなたです。
一生にげだしてばかり、負け犬のままでいいの?」
逃げ出してばかりの、負け犬。
そう言われた時、身体にぐわっと火がついた気がした。
公爵夫人の言うとおりだ。あたしはずっと逃げ続けてきた。
難しいことはさけて、うまくできることだけやって来た。だって失敗したらショックでしょ? 自分がみじめになるでしょ? だから新しいことに挑戦しなかった。
自分を守りたかったからだ。
だけどもう、そんなことから卒業したい。自分の人生を、自分で切り開きたいんだ!
ぐっと顔を上げると、公爵夫人が、アクアブルーの目を光らせていた。すごい怖いけど、ここで逃げたら一生ずっと負け犬。
やるだけやって、それからあきらめよう。もう一ミリだって引くもんか。
「やります! やりぬきますから! お願いします、公爵夫人!」
「ほほ、ほほほほ。おっしゃったわね。もう泣きごとは聞きませんよ」
「今までだって、聞いてくれたことないじゃん……」
公爵夫人は華麗にあたしの言葉をスルーした。
「困難な局面を笑って乗り越えるのが、究極のエレガンスです。それを教えたかったのよ。さあ、そのバカみたいな子熊ちゃんのパジャマを着替えていらっしゃい」
「……公爵夫人、パジャマから足をどけてください。何のつもりで、踏んづけているんですか?」
夫人はニヤリと笑った。
「サイコーにおもしろい生徒をにがさないためよ。飽きないわ、あなたを見ているとね――サロンで待っています。五分後に集合!」
「はいっ!」
あたしは、脱兎のごとく駆け出した。
やりぬくと決めた課題は、もう難問じゃない。やるか、やらないか。いつだってそれだけだ。
もう道はまっすぐに見えている、大丈夫よ……ええと、この階段は左にいくんだったかな、それとも右に? この家、大きすぎるのよ……。迷子になっちゃった。
女王陛下のティーパーティは、芝生の庭園でおこなわれる。銀のティーセットにバラ模様のティーカップ。ずらりと並ぶレディたち。
陛下はゆっくりと歩いていらした。ラズベリー色の平らな帽子がおいしそうな焼き菓子みたいだ。
お辞儀をすると、優雅に微笑まれた。
「ようこそ、ロスシナー卿夫人。今日は楽しんでくださいね」
「お招きいただきありがとうございます、陛下」
完璧なマナーでお答えした。どうだ、血のにじむような苦労の結晶だぞ。心の中でいばっていたら、 陛下が近づいて、小声でおっしゃった。
「マナーキャンプはつらかったでしょう。でもね、エミリが言っていましたよ。これまで預かった中で、史上最高に笑える生徒だったって。楽しかったって――」
じわっと温かいものが、お腹から指先まで広がった。陛下が歩かれる先にノト公爵夫人が立っているのが見えた。
空は青く、風はやさしく。テーブルには銀のティーセット。
そしてレディの胸には、マナーが鋭い武器のごとく静まっている。
今はあたしも、その列につらなっているんだ。
子供時代は卒業した。
わたしは、スミ・タカノ・ロスシナー卿夫人だ。
【了】
表紙画像・記事中画像ともに
Chí Nguyển QuốcによるPixabayからの画像
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