私のネコ

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 歓楽街のネオンの光が疲労した目に沁みる。  取引先との飲み会が終わると必ず繰り出す夜の店。煌びやかな女性が働く店での接待を終え、店の前でダラダラと話し込む。私の最も嫌う、非生産的な時間だ。 「じゃあ、桜ちゃん。ありがとねー」  馴れ馴れしく私を呼ぶ相手方を繕った笑顔で見送り、私はようやく自由の時間を得た。午後十一時五十五分。商業ビルに映し出されたホストクラブの電光広告塔を横目に帰路を急ぐ。早足で地下鉄への階段を降りていくたびに踵のヒールがうるさく鳴った。 「ネコ!」  真夜中だというのに、マンションに帰宅した途端に玄関で叫んでしまった。部屋の奥から足音が鳴る。スウェットを着たネコが駆け寄って来る。いつもと同じ光景。 「ただいま、ネコ。ごめんね、遅くなって……。ご飯食べた?」  裸足のまま玄関に立ったネコは、困ったように微笑み、首を横に振った。  どこかでそんな予感はしていた。ネコはれっきとした大人の人間だ。しかし、この家では違う。  私がパンプスを脱いでフローリングに立つと、ネコとの身長差がくっきりと示された。私は両手を伸ばして、ネコの髪の毛に触れる。冷たい指先に、ふわりとした感触が滲んだ。 「ごめんね、お腹空いたよね……」  わしゃわしゃと髪をかき混ぜると、ネコは声もなく笑ったまま、私の両手首を掴んだ。途端に冷えた手に温度が伝わってくる。 「ネコ……?」  これまでになかった触れられ方に驚いた私は呆然とネコを見上げ、その隙をつくように微笑んだネコは私の額に唇を寄せた。  柔らかな感触が全身に広がり、胸の奥が痛い。  二十年前、猫を飼っていたのはわずか数週間の出来事だったように思う。  しかし記憶がおぼろげのせいか、季節感も曖昧だ。縁側で眠っている猫の姿も、私の布団に潜り込もうとしていた猫の姿も、やけに鮮明に脳裏に描かれた。  これまで猫について思い出す事はほとんどなかったのに、ここ最近はやたらと夢を見る。ゴロゴロと鳴る喉の音も、肌に馴染む毛触りも、中毒になる肉球の感触も、私の五感をリアルに撫でていく。  私は夢の中で猫を抱く。名付けられなかった、私のペット。  ――桜ちゃん  腕の中から唐突に男の声が響き、私は驚いて猫を腕から落としてしまった。床に落ちた猫はたちまち男の姿となる。  ――まだ気付かないの?  癖がかった猫っ毛を持つ男は、あどけない表情を浮かべながら、目を細めて笑う。  ――俺は、あの猫の生まれ変わりなんだよ  そう言ったネコは、私の額にキスをした。  その拍子で私は目を覚ました。慣れた寝室の光景、ベッドのシーツの感触、パジャマの下を嫌な汗が流れ落ちていく。  窓の外はまだ薄暗く、枕元に置いたスマートフォンは午前四時を示していた。  私は胸を押さえて深呼吸を繰り返し、ベッドから出た。喉が渇いたのでキッチンへと向かう。  ドアを開けた廊下の向こう、リビングのソファーではネコが眠っているはずだった。でもよく考えてみればネコは夜行性のように暮らしていたはずで、午前四時にリビングのドアを開けてしまった私が迂闊だったのだろう。  ぼそぼそと話す人の声が聞こえる。 「いや、まじで勘弁して下さいよ」  電気も点いていない暗いリビングは、普段とは別の空間のようだ。 「ストーカーのほうもどうにかなりそうなんで……。そうっすね、それでお願いします」  三週間前に聞いたっきりの低い声を、私は覚えている。――あんたの家に俺を置いてよ。  ドアノブを握った手のひらの感触が平たくなっていく。 「あ……」  スマートフォンの操作音と共にソファーの影から姿を見せたネコは、私の存在に気づいたせいか、バツの悪そうな顔を浮かべている。その表情になおさら喉元を熱くした私は、それを吐き出すように口を開いた。 「何してるの……」  ネコが本物の猫ではない事くらい分かっていた。なのに、どうして私は裏切られた気持ちになっているのだろう。 「ストーカーって、何」  震える声で訊ねると、ソファーから立ち上がったネコが私を見下ろした。猫っ毛の下にある端正な顔。ネコってこんな顔をしていたんだったっけ、と私は戸惑う。まるで知らない人みたいだ。  ネコが私に近づく。一歩ずつ、ゆっくりと。私は後ずさりたいのに、足が震えてうまく動けない。 「桜ちゃん」  寝ぐせの付いた私の頭に、ネコの手のひらが乗せられた。私のものよりも大きな手で撫でられる。いつも私がネコにしている時よりもずっと丁寧に。  名前を呼ばれたのは、初めてだった。 「俺を匿ってくれてありがとう」  くっきりとした二重瞼の下にある瞳にまっすぐに見つめられ、私は視線を彷徨わせた。  慈しむような表情も、Tシャツとデニムパンツを着こなした長身も、やっぱり私の知らない人みたいだ。ネコを初めて異性だと意識した。戸惑いと期待と落胆がつっかえて絡み合う。私の周りだけ酸素濃度が薄くなってしまったかのように、呼吸が苦しい。  リビングの壁時計の音がやたらと響いた。肉球よりも優しくない感触の指で私の頬をなぞったネコは、ふっと笑い、言った。 「まだ四時だよ。もう少し寝ないと」  普段よりもずっと寝不足で、仕事の疲れは抜けきっていないというのに、眠気なんて残っているはずもない。なのに私はネコに言われるがままふらふらと寝室に戻り、ベッドに潜り込んだ。  もういちど夢の中で猫に会いたかった。そういえば、八歳の頃に拾った猫は傷だらけだった。野良犬か何かに襲われたのだろうと母は言った。  どうするの、と母の声が聞こえる。そんなに可愛がってしまって、猫がいなくなったらどうするの。  猫が姿を消したのは、生ぬるい風の吹いた梅雨の日だった。突然いなくなってしまった猫を、私はお気に入りの傘の柄を握って探し回った。名前のない猫を、「猫」と呼んで、近所を歩き回った。  冷たい雨の中できっと猫は泣いている。ひとり寂しく泣いている。でも誰よりも寂しかったのは、きっと私だった。  夢うつつの中で玄関のドアの音が響いた。翌朝、リビングのテーブルに置かれていたのは、合鍵と一言の書き置き。  ――ありがとう、お元気で。  ネコらしい不格好な文字が、いつも私が使っていたメモ帳の上で静かに佇んでいた。
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