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妖しい光に包まれている夜の歓楽街を、私は決して嫌いじゃない。綺麗なロングドレスを着たホステスが客を見送っている姿も、愛嬌を全開にして客引きをしている若い男の姿も、人間の本能を凝縮させた世界のようだ。
私は肩にかけたトートバッグの紐を握りしめながら、濁った空気のなかを歩いていく。ネコが姿を消してから二週間が経っていた。今ではネコと過ごした日々は夢だったんじゃないかと思う。
よかった、と私は思う。ネコを手に入れなくてよかった。今後の約束をしなくてよかった。ただひとつ心残りなのは、彼をネコと名付けてしまった事だけだ。母の言った事はとても正しい。
手に入れなければ失う事はない。
点滅していた信号が赤に変わり、私は横断歩道の前に立ち止まった。目の前を高級車やトラックが走っていく。
「ねえ、見て見て!」
私の横にいる派手な女の子二人が、横断歩道の向こうにあるビルを見上げた。
「ユキ君、復帰したみたいだね!」
商業ビルの壁一面に映し出された電光広告塔は、この街で一番大きなホストクラブの宣伝を映していた。画面の発光によってビル周辺の夜空にネオンがかすかに滲んでいく。
女の子達の声に従うようにそれに目を向けた私は、思わず息を飲んだ。真冬でもないのに気道がきゅっと冷える。
煌びやかな画面に移っていたのは、つい先日まで一緒に過ごしていた私のペットだった。
「なんかストーカー被害に遭っていたんでしょ」
「可哀想、私の家に匿ってあげたのにー」
冗談っぽくからからと笑う女の子達の声が私の後ろ髪を撫でていく。
広告塔に映し出されたネコは私の知らない顔で微笑み、その下には彼女達の呼んだ通り「YUKI」と表記されていた。
画面が別のホストを映したのと同時に、信号が青に変わり、私は人並みにならうように歩き出した。ヒールを履いた足元でしっかりとアスファルトを踏みしめていく。
この街にネコがいた。働いて、生活をして、過酷な人間社会で生きていた。
「よかった……」
とっくに広告塔から離れているというのに、胸に広がった熱がやまない。記憶の片隅に眠る八歳の私が安堵する。
二十年前に私と一緒に過ごした猫も、このように本来の居場所に帰っていったのだろうか。本来備わっている本能に従って、仲間と共に餌や寝場所を探して、もしかしたら子孫を残したりして、そうやって生きたのだろうか。冷たい雨の降る日も、さんさんと太陽の照る日も。
手に入れる事は失う事の同義だと思っていた。でも、猫と過ごした時間も、ネコと過ごした時間も、確かに存在した。それが私を形成する世界の全てだ。
境界線の曖昧になった夢を抱きしめながら、私は地下鉄への階段を降りていく。会社帰りのサラリーマンや酔っ払いで密集した地下鉄ホームで現実を迎えながら、私は一人と一匹のペットを思う。
どうかお元気で。どうかお幸せに。
ありがとうの五文字を見えない空へと浮かべていく。私のネコへと届きますように。
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