エピローグ

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エピローグ

 『或る野良猫のプロローグ(エピローグ)』  フワフワ、ポカポカ。  お日様のぬくもりを閉じ込めた雲の上に浮かび、蒼空を自由に翔るような心地良さに、身も心もポーッと満たされてゆく。  心無しか手足も空気と一体に溶け合うように軽やか。  大いなる温もりに抱擁されて、全てを委ねていたい不思議な気持ち。  まるで自分が赤ちゃんに(もど)ったような――。  『    ――……可愛い可愛い    ――……』  突如、耳朶をくすぐった少女らしい無邪気な声かけに、ポーッと霞んでいた意識は外へ向いた。  もっこり柔らかな半纏にフワフワな寝巻きで着込んだ小さな“巨人”の膝の上で、赤ん坊のように抱っこさせられているのは分かった。  少し前の僕にとって、小さな“巨人”も恐ろしい存在だった。  今も未だほんの少しだけ。  『咲ーいーたー、咲ーいーたー。    ――の鼻(はーなー)がー……どーの    ――見ってーもー、可愛(かーわー)いー、だぁーなぁ――……』  フニャフニャな眠気状態の僕の額から背中、無防備なお腹や喉をマッサージするように絶妙な加減で撫でてくれる手、天真爛漫な歌声に安らぎを見出している僕がいた。  この少女は、相手に好かれても嫌われても、ただ相手が相手で在るだけで、ありのまま全てを愛おしむ。  真っ直ぐで無垢な慈しみをたたえた天使、もしくは“女神的な愛情”の持ち主なのだろう。  名も知らぬ小さな巨人に対して、何故だかそんな確信と共に親しみを覚えた。  『おやすみなさい、    ――大好きよ――……』  霞む昼明かりの景色は幽麗な宵闇へ移り変わり、今度は中の“巨人”が横たわる寝台の上に乗っていた。  女性の足元辺りに敷かれた柔らかな毛布に腰掛ける僕に向かって、女性は明日までの別れと共に優しい愛の言葉を囁いた。  たとえ微睡みに沈んでいても、音と肌だけで感じられるのは、我が子を愛おしみ、心を砕く母なる愛の化身の眼差しと温もりだった。  自分の母猫(ママ)のように懐かしく、絶対的な安心を与えてくれるこの女性のことも、僕は泣きたくなるほど好きだったのだ。  『    ――君……    ――ちゃん……良い子だなぁ……ホレホレッ』  最後に見えたのは、絨毯の上で寝転がって昼寝に浸る大の“巨人”の姿。  ぶっきらぼうな野太い声色から雰囲気だけで、男性が強面であることが伝わってくる。  巨大樹の幹みたいにずっしりと恰幅の良い腹部に向かって、僕はポスッと鼻を押し付けるように擦り寄る。  すると、と緩み切った猫撫で声で応えながら撫でてくれた。  無骨な手ではあるが、その力強さに込めた優しさも肌で感じることができた。  甘えたい気分へ誘われた僕はちょこんっと腰掛けて、でっぷりしたお腹に体をくっつけて眠る。  この男性は自分よりも小さな命を守り愛おしみ、幸せと望みのために何でも与えてしまいたくなる一方、失うことを恐れる臆病で優しい巨人なんだ。  きっと、この夢の猫は“幸せ”だったのだろう。  名前も知らない巨人達の無垢なる愛情に包まれながら、僕はそんな不思議な確信を抱いた。  これは或る孤猫が辿った、或る幸せな猫の物語の夢――。  *  “あの夏の七日間”から半年が過ぎた頃。  すっかり季節は冬の残滓に凍える体を、甘くほろ苦いチョコレートにホットドリンクで暖を取りたい時期へ入っていた。  閑散とした猫屋敷家の居間で一人、ミルキーで滑らかなチョコレートで疲れた頭を覚まし、芳しい苦味のブラックコーヒーでお腹の底を温める。  初めての本気の厳しいダイエットに励んでいた頃は一切断っていたチョコレート。  久しぶりに口にすると、砂糖とミルクの塊のように甘ったるく、舌の中から頭の奥まで蕩けそうだ。  ゆっくりと近付く刻限を待つ間、室内を見渡しながらぼんやりと物思いに耽る。  居間に置かれた暖色木製の食卓とお揃いの椅子も、爽やかな女無天緑(ミントグリーン)の窓掛けも。  家具や丁度品の種類や位置は、あの頃から時間が止まっている様に変わっていない。  唯一つ、あの頃ならプラモデル製作室の前になければならなかった“或るモノ”は、あの時間から弾き出されたように痕跡すら消えている。  見た目を除けば、以前とはすっかり様変わりした猫屋敷家に一人で過ごすと尚のこと静かで、何かが欠けているような虚しさに襲われる。  「ただいま、ミー子。遅くなってごめんね。もう、今から出られるかしら?」  正面玄関を開錠する音が響いた直後、扉の向こうから穏やかに微笑むママンが姿を現した。  「うん、今行くよ」  ママンの誘いに頷いたミー子は既に玄関に置いていた鞄を手にし、靴を履いたらそのままママンと一緒に出かけた。  凍てつく冬気に枯れ縮まった草花だけが揺れ、すっかり寂れてしまった中庭の煉瓦畳を踏み越えた手前で、パパンの自動車が待機していた。  ママンとミー子が車の助手席へ乗り込むと「行くぞ」、といつものぶっすりした仏頂面で呟くパパンと顔を合わせた。  最近は、元から短気でせっかちな性格にさらなる磨きがかかったようで、声や表情は殺気立つ猛獣のようだ。  ママンとミー子が座席へ乗るや否や、シートベルトを装着し終わるのを待たずして即座に発進した。  「……」  今から家族揃って赴く『目的地』へ想像を馳せる三人はそれぞれ、複雑な心境で沈黙に伏していた。  元々あまり多弁ではない三人の間によく流れる自然な静寂も、から今も変わっていない。  強いて変わった点を挙げるとすれば、三人のちょっとした関係の在り方、そして未来への眼差しだろうか。  根は繊細で皮肉屋なパパンはともかくとして、ママンとミー子は自分に芽生えた精神的な変化に、かなり自覚的だった。  百年獄暑の異常気象で世間が喘いでいた昨年の夏、八月八日・午前四時十四分・享年十二歳。  猫屋敷家の愛猫・シャルルは突然にして“永遠の眠り”へついた。  シャルルの死後、夏場であることも相まって三人は急ぎの葬儀と埋葬を余儀なくされた。  諸々の手続きは、藤森先生が紹介してくれた動物霊園に申し込んだおかげで円滑に進み、三人にとって満足のゆく供養と見送りができたと思う。  今も鮮明に思い出せるのは、彩りの花を添えられた棺に納められる亡骸となっても、凛と愛らしい横顔で永遠に眠ってしまったシャルルの姿。  葬式の後、ママンの強い希望と提案でシャルルの亡骸は『樹木葬』で納めた。  灼熱の窯火で焼いて遺った骨を三人の手で一つずつ丁寧に粉砕機へ納めた。  機械で粉状に砕いた遺骨は、動物霊園の墓地に植えられた金木犀の樹の下へと埋めた。  やがて、シャルルの残滓は樹木の養分として成長の糧となり、自然と一体し、その無垢なる魂が自由へ解き放たれることを願って。  丘の上に建つ墓地からは麓に広がる街並みや真っ青な川と空を眺められるし、動物霊園であればたくさんのもいてくれるため、シャルルに寂しい思いはさせないだろう。  ママンとミー子の提案にパパンの賛同で決したシャルルの埋葬法に「これでよかったのだ」、とママンは心で囁きながら手元にあるアルバムを撫でた。  シャルルとお別れをしてきた後、シャルルの遺影を選ぶついでに、ミー子は今まで撮影してきたシャルルの写真のデータを整理する他、シャルルとの思い出の手作りアルバムも作成した。  昔ながらのやり方を思いつく所は、遊び心に富んだミー子らしかったが、ママンとパパンにとっても慰めの一つとなった。  最後は病気で弱り苦しんでいた姿ばかり目に焼きついてしまった。  しかし、ミー子の作ったアルバムのおかげで、元気だった頃のシャルルに何時でも逢い、幸せだった頃を懐かしめる。  無機質なパソコンの画面越しで見るのと違う。  こうして写真の中のシャルルに手で触れて見られること、頁に飾られたシャルルの周りを彩る可愛らしいイラストや文字にも癒され、寂しいはずなのに自然と笑みも零れた。  『シャルル君は三人に対して、確かに親愛と信頼を寄せていましたよ。ほら、お腹を見せて寝転がったり、お腹を撫でられて気持ちよさそうにしているでしょう? 警戒心の強い猫が急所であるお腹や背中を見せつけるのは、信頼している相手だけなんですよ』  改めて近況報告と感謝に訪れた際、シャルルのアルバム写真を見た藤森先生は穏やかに告げた。  動物医学の専門家である先生だからこその言葉も、三人の心にとって救いとなった。  膝の上に乗せたシャルルのアルバムを鞄へ大事そうにしまうと、入れ替わりで一通の手紙を取り出した。  開封済みの封筒から取り出した一枚の便箋に綴られた丁寧で繊細な文字へ、一通り目を通してから折り畳む。  「ママ? どうかした……?」  後部座席で携帯音楽機器をイヤホンで聴きながら窓の外を眺めていたミー子。  ママンが助手席で前を向いたまま片手を後ろへ回し、手を伸ばしているのに気付いた。  普段から音楽を聴いて自分の世界へぼんやり耽るミー子に用がある時、いつもママンは手を伸ばしてくる。  周りの景色は自動車が列を成して行き交う道路が広がっており、目的地は未だ先だ。  何事だろうと首を傾げたミー子は、ママンの方へ顔を向けると用件を聞くためにイヤホンの片側を外した。  「ううん……ただ、何となく」  しかし、ママンは特に用があるわけではなく、何となくミー子とほんの少し手を繋ぎたくなっただけらしい。  ママンもそれ以上は何も言わなかったが、曖昧な微笑みから何かを察したミー子も淡く微笑みながらママンの手を取り、そっと数回ほど優しく握り返す。  今日も今の所、ママンがある程度安定している様子に、ミー子も内心胸を撫で下ろした。  「もうすぐ着くぞ。直ぐ降りられる準備はしておけ」  シャルルが亡くなった直後は、特にママンが深い悲しみに暮れ、葬儀関係の手続きが完遂するまでの二週間は、涙で頬を濡らさない日はなかった。  同じ年に亡くなった父親の件に愛猫の突然死が重なったことで、ママンは精神的にまいっていた。  ようやく今年の一月から仕事へ復帰した今でも、不意にシャルルのことを思い出し、猫や身内の死別関係の話題になると涙が溢れて止まらないこともあった。  シャルルは家族の愛玩動物(ペット)ではなく、我が子同然に愛した、かけがえのない存在だった。  家族の中では最もシャルルを喪った悲嘆を露わにするママンも、初めて気付かされたのだ。  ママンだけでなく、冷静なまま時折涙を零すミー子も、仏頂面は相変わらずだが煙草の吸い過ぎで茶色い尿が出てしまったパパンも、それぞれがシャルルに対する後悔と罪責感といった複雑な心を抱えていた。  ミー子は最近の自分がダイエットにかまけてシャルルを放任し、シャルルの急な発病と死を誰よりも冷静に見つめ過ぎていたことに対して。  ママンは猫の病気の危険性や健康対策の正しい知識と理解の不足についても。  パパンは体に悪いと知っていながらもシャルルが望むままに食べ物を与え続け、後に野良猫の世話に夢中になったことでシャルルにそっけなくしてしまったことを。  「(それでも……私達はまた……)」  シャルルのおかげで、家族はまた一つに戻れた気がした。  シャルルというかけがえのない家族の一員が欠けてしまった今、不謹慎な考えかもしれない。  それでもシャルルの命は、私達家族にこと、そのかけがえのない大切さを教えてくれた気がしてならない。  互いが少しずつ保ち直してきた部分も、あの夏のかたわれ瞬間(どき)のままで止まり、シャルルの気配を探し求める想いも共在する心のまま、三人は“新たなる一歩”を踏み出そうとしていた。  *  ふにあぁ〜あぁ〜……っ。  にゃんだか、不思議な夢を見ていた気がするにゃあ。  そのせいか、目が覚めても未だ頭がポーッとするにゃ……。  林檎の残り香が染み付いた段ボールに古ぼけた毛布で作られた即席の寝台で目を覚ましたは、眠気眼で周囲を見渡してみる。  木造建ての二階の畳部屋にどこかミスマッチな新品の乳茶色(クリームブラウン)の学習机、アニメキャラが印刷された苺飴色の布地の鞄、桜桃(さくらんぼ)模様の布団の寝台、僕の仲間を模したようにフワフワな茶虎猫のぬいぐるみ、正方形の硝子窓から覗く青空に興味津々だ。  好奇心旺盛で活発なお年頃の僕の安全を考慮して、花瓶や鋏などの危なっかしい物は全てしまわれている。  この部屋はかつての主が子どもの頃に過ごし、両親と共に新居へ引っ越して以来、そのまま残されたらしい。  今は仕事で外出中の元・部屋の主であり、僕の“命の恩人”である女型の巨人・『茶子さん』との出逢いを想起する。  『もしかして独りなのかな……? なら、私と一緒においで』  物心ついた頃から、僕には母親もきょうだいもおらず、たった独りで世界を流離(さすら)っていた。  長い旅の途中、槍のような雨に濡れ凍え、空腹に耐えかねて公園の遊具の下で憩っていた僕を見つけたのは茶子さんだった。  茶子さんは保育士を目指す女子大生らしく、下校中に大雨に当てられて最寄りの公園へ雨宿りをしに駆けつけた所で僕と出逢った。  茶子さんは小さな僕を柔らかなタオルに包んで抱き上げると、そのまま家に連れ帰った。  僕を保護してくれた茶子さんは、お腹を空かせた僕に新鮮で瑞々しい猫缶とミルクを与え、汚れた僕の体を風呂場で綺麗にして乾かし、フカフカの温かい毛布で寝かしつけてくれた。  にゃあ……まさに至れり尽くせり。  やはり世界を歩き続けていれば、やがて天国のごとき安息の地が待っているという、ぼやけた記憶の中で生きる母猫(ママ)の導きに間違いはなかったにゃ。  しかし、親無し・家無しの猫から『名無しだけの猫』へ昇格した僕に告げられたのは、予想よりも早過ぎる別れだった。  『ごめんね、子猫ちゃん。私もお爺ちゃんも、君を飼うことはできないんだって……』  にゃんですと!? 心底申し訳なさそうに呟いた茶子さんの言葉に、僕は衝撃と失望を覚えた。  せっかく、茶子さんのように優しくて声も良くて、温もりに満ち、路上生活時代では永遠に味わえなかった(人間的に言えば)高級キャビアと上質硬水、絹と羽毛の布団くらいの贅沢で安心・安全な暮らしを与えてくれる理想のご主人との良縁はそうそうにないというのに。  僕の飼い主になれない茶子さん、とその母親、この木造建ての家で一人暮らしをする彼女のお爺さんとの会話から掻い摘んで説明すると、難しい事情があることを知った。  都心にある現代マンションの一室で両親と暮らす茶子さんは、僕を保護したものの、父親の重度の猫アレルギーがその時に初めて発覚してしまったらしい。  やむ無く、今は一時的に僕を実家(この家)に住むお爺さんのもとへ預けている。  しかし、将来僕が大人になってこれから老いていく先を考えれば、今よりさらに高齢になるお爺さん一人に面倒を見させるのも心許無いらしい。  今日の午後から三日ぶりに顔を見せにくる茶子さんと母親は、その時にお爺さんと結論を出すのだろう。  今朝、器に盛った猫缶と水差しを運んでくれたお爺さんは皺くちゃな皮に包まれた顔に穏やかな微笑みを浮かべ、名残惜しそうに声をかけてくれた。  まさか、また僕は見放されてしまうのだろうか。  いつの間にか、僕の前から姿を消してしまった母猫やきょうだい達のように。  ただならぬ雰囲気に、今朝からソワソワと胸がざわめいていた僕の耳に、ピンポーン! と呼び鈴(インターホン)が高らかに響いてきた。  「こんにちは。どうもお邪魔してすみません。お世話になります」  「いえ。こちらこそ、お忙しい中、時間を取らせていただいて、感謝します」  「はい……あ、主人は駐輪場へ車を止めたら直ぐに来ると言っております」  猫自慢の敏感な聴覚を駆使して、十センチだけ開いた扉越しから一階の正面玄関から微かに感じる来客の気配と話し声へ耳を研ぎ澄ませた。  さらに嗅覚もピクピクと働かせてみると、茶子さんと母親の新鮮な匂いに混じって何だか馴染みのない匂いと気配が加わっているのが分かった。  約束通り、恩人の茶子さんが来てくれたのは分かるが、知らない匂いの正体に興味をくすぐられた僕はピョコッと寝台から飛び起きた。扉の隙間を余裕で通って部屋を出ると、(けやき)の香る滑らかな階段をトコトコと慎重に降りて行った。  「それで、例の子猫ちゃんは……」  「はい。二階のお部屋に……」  おっかなびっくりながらも、ようやく一階に着いた僕は、巨人の匂いがプンプンと凝縮された居間へ足を運んだ。  丁度、僕の話題を出していた茶子さんは真っ先に小さな僕の気配を察知した。  茶子さんの目線を辿って、他の人達の眼差しも僕一身へ注がれる。  磨り硝子戸の隙間からちょこっとだけ顔を出して、居間の様子をじっと伺う。  「もしかして、あの()ですか」  招かれた来客である童顔な女性と眼鏡の中年女性に問われ、茶子さんは笑顔で頷く。  生後五ヶ月くらいの子猫は手足と鼻筋がスッキリと整った体付き、艶やかな漆黒の毛並み、ピスタチオイエローに透き通った丸い瞳の愛らしい黒猫。  どの特徴もとは対照的で、まったく似つかない――はずなのに。  [みゃあぁ〜……]  「あらあら……珍しいですね。前に知らない人が来た時は、二階の押し入れへ飛び逃げたのに」  初めての匂い、初めての気配(足音)、初めての顔のはずなのに――この人達を見ていると、にゃんだか無性に――。  茶子さんと逢った時にすら感じたことのない。  胸を締め付けられるような懐かしさ、髭がビリビリと痺れるような狂おしさに、僕の足は無意識に来客の足元へ歩み寄っていた。  先ずは眼鏡の女性がニ、三歩だけ距離を縮めてから膝を折って目線を合わせてきた。後ろにいる童顔女性も続いて立ち上がる。  黒い子猫(ぼく)は目の前の女性をじっと上目遣いで見つめてみる。  今まで外の世界でも色々な巨人の顔を見てきた。  しかし、眼鏡越しに僕を見つめる目の前の瞳は、今までにない色を帯びていた。  このような慈愛に“悲しみ”が溶けた切ない眼差しは見たことがない。  後ろで静かに見守る童顔女性は、透明に冷えきった瞳に、眼鏡女性とは異なるもの悲しさをたたえていた。  双方が醸し出す静穏な雰囲気、そこに秘めた寂しさが、顔も忘れた母猫に焦がれる僕の寂しさと重なって見えたせいだろうか。  にゃあぁ……にゃんだか、無性ににゃあぁ。  あまえさえてにゃあ。  ピョコピョコッ。  無意識に伸ばした肉球は眼鏡女性の膝に触れ、ついには太腿の上によじ登っていた。  初対面であるはずの自分に「抱っこしてぇ」、と訴えるように甘えてくる子猫に呼応するように、眼鏡女性も両手を伸ばす。  「っ――……っ」  眼鏡女性は両手で子猫をそっと抱き上げ、壊れないようにきゅっと優しく胸に抱き寄せる。  艶々で滑らかな毛並みにフワフワと柔らかくて儚げな感触。  シャルルとは似ても似つかない確かな重みと懐かしい温もりをこの手と胸に感じ、眼鏡女性は感極まった様子で小さく震えていた。  「ほら、あなたも……抱いてみて? ミー子……」  眼鏡越しに瞳を潤ませて微笑む女性は、娘である童顔女性に振り返る。  どこか遠慮がちに見つめていたミー子という女性は、差し出された黒い子猫へそっと両手を伸ばし、意を決したように受け取った。  今度はミー子の顔を上目遣いで真っ直ぐ見つめる僕。  すると、小さな巨人に通じる無垢さ、と大きな巨人らしい知性と優しさが溶け合うに吸い寄せられるよう。  ミー子と呼ばれた女性は透明な眼差しを向けたまま、僕の喉や額を絶妙な力加減で撫であげる。  あ……ミー子さん、そこ、たまらなく気持ちいいにゃあ……っ。  黒い子猫は心底気持ち良さそうに瞳を閉じて、ゴロゴロと喉を鳴らして甘える。  すると、あまり表情や声の抑揚が乏しかったミー子は無邪気に綻ばせた唇を子猫の額辺りに寄せた。  「がする――」  スンッと鼻先で額を撫で上げながら、どこか嬉しそうに囁いたミー子の謎の台詞にどこか聞き覚えがあった。  きっと夢の世界で聞いたことがあるような気がして、また懐かしくなった。  「おい、決まったか?」  数分後、ミー子と眼鏡女性の連れである強面サングラスの親父が現れた。  風船さながらのぽっこり腹にしがみつくような姿勢で抱き上げられた僕の姿にその人も骨抜きにされたらしい。  かくして、恩人である茶子さんが紹介してくれた三人・『猫屋敷家』の新たな一員として迎えられた黒い子猫(ぼく)。  かつて夢に見た“或る茶虎猫”のように幸せな家族生活は今、始まったばかり――。  はじめまして(おかえり)――。  世界一、大好きな可愛い“君”――。  ***了***
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