心眼

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            心眼                  猪瀬 宣昭        靴箱から真新しいスニーカーを取り出し、私は、それを玄関のたたきの上に置いた。  散歩のためを意識して購入した初めての靴だった。どこにいくにも革靴を通してきた私が、会社勤めから離れた十日目の夕方、街なかのスニーカーをたくさんそろえた靴専門店に入り、[ウオーキングに最適]いうポップが立てかけられたスニーカーを購入したのである。  お前はもう自由の身なのだ、と自らに言い聞かせたかったのかも知れない。  テレビを観ていた妻がリビングから出てきた。 「よし」  私は立ち上がった。 「余り遠くに出かけないんでしょう?」 「ぶらりひとまわりだよ」  水曜日の昼下がり、柄物のシャツに薄いジャンパー、明るいチェックのズボンというスタイルで家を出る。 一軒置いた家の奥さんが鉢植えに水をやっている。ご主人は経済学が専門の大学教授である。 年齢がほぼ同じということもあって妻とは仲がよい。 「こんにちは」  立ち止まって、声をかけた。 「あっ、こんにちは。いいお天気ですね」 「いい季節になりました」 「お散歩ですか」 「ええ、ちょっと」  私は頭をさげて、歩き出す。  お散歩ですか?ごく自然に言葉が出ていたな。妻から当然、情報を得ていただろう。だけど、「はい」の後に「私も自由になりましたから」などと自分からリタイヤしたことの言葉を発してもよかった、などと思いながら、角を曲がり、広い通りに出る。  どこに行くか、駅の向こう側に最近誕生したショッピングモールのことも頭に浮かんだが、やっぱり、こっちだな、と正面の信号の色が変わるのを待った。  十字路を直進する形で進むと、また、道路に出る。  横断歩道を渡ると草を生やした長い壁が左右に続いている。 土手である。  私は、なだらかな斜めの道をあがっていく。ちょっと暑いな、いったん、立ち止まり、薄手のジャケットを脱いだ。  土手の上は舗装された道になっている。 ゆったりと流れる幅広い川、シートを置いてバーベキューを楽しめるほどの余裕ある広さの川原、鉄橋も見える。  私はその開放的な景色に、「アアー」と声をあげて伸びをした。  この地に引っ越してきたのは、二年前のことだった。私の会社は六十歳で定年という規定があるが、希望すれば二年間までの延長を許可してくれる。それを選択した私は、都内にある本社から小さな営業所の手伝いをすることになった。  子供のいない私達夫婦がずっと住んでいたのは、巨大な団地だったが、転勤を機に地面の上に住んでいることを実感出来る家に住もう、ということになった。営業所まで、駅から歩いて遠くなく、老後をのんびり過ごせそうな住宅地、が求める条件だった。 ゆったり流れる川、広い川原、鉄橋の見える風景に加え、その日は、カラフルな大きな翼をつけたモーターハングライダーが、空を実に爽快に飛んでいた。私達は、声を揃えて「いいなあ」と言い、建売住宅を購入することを決めたのだった。  私は鉄橋と反対方向に舗装された道を歩いていく。茶色の木製のベンチが適当な感覚で置かれている心遣いが嬉しい。  あの場所まで歩いていこう。私は目標地を決めた。車が走る陸橋の下までいって戻ってくることにしたのである。  それにしても、何か趣味を持った方がいいな。この先、ひまな時は散歩しかないというのは困りものだ。    自転車が傍らを通り過ぎていく。ロードレーサーのような自転車を乗り回すのも健康的でいいかも知れない。中学生の頃、私は自転車少年だった。父親が乗っていた大きな荷台がある今やどこを見渡してもない重量感ある自転車で私はアチコチを走り回った。高校の時、肺に影があるとかで長期欠席して以来全く乗らなくなってしまった。なんで、あんなにぷっつりやめてしまったのか。くすんだ緑色の自転車だった。  川の流れを眺めたり、川向こうの町並みを眺めたりしながら、私は、陸橋を見上げるところまで来た。陸橋をくぐってもう少し進んでもよかったが、予定通りUターンをすることにする。  通りにくだる斜めの道に近付くにつれ、どこかベンチに座りたくなった。歩き疲れもあったが、川の景色と離れがたくもあったのだ。  先刻は見かけなかった老婦人がベンチに腰を下ろしている。クリーム色のブラウスに薄茶のカーディガン、眼鏡をかけたその女性は黒のバックを膝の上に置き、静かに座っている。その視線はまっすぐ対岸に向かっているのが見て取れた。  私は老婦人の左側の斜めの道に一番近いベンチに腰を下ろした。  ベンチから視界に入る景色を眺め、老婦人の方に視線をやったのは、彼女の前を通り過ぎた時に垣間見たその表情だった。随分思いつめたような真剣な視線で対岸を見つめていたような気がした。私は横からそれを確認しようとしたのである。そっと顔を向けたつもりだったが、横顔ではなく、こちらを向く老婦人と視線を合わせることになった。  老婦人が、軽く会釈をし、「こんにちは」と小さな声で言った。  私は会釈を返した。 「いい天気ですね」  大学教授の奥さんに言った言葉が自然と口をついて出た。 「そうですわね。お近くですの?」 「はい、五、六分の距離でしょうか」 「そうですか。こんな景色を楽しもうと思えばいつでも楽しめるなんて贅沢」  老婦人が微笑んだ。  近隣の人ではないのか。電車の乗っていて、急に川べりの景色の中に身をおきたくなって途中下車したとも思える。  老婦人の言葉に、「まあ」と曖昧に笑って答えたことで、ちょっと、間が出来た。景色に戻ってもよかったが、どちらからいらしたのですか、と聞いてみようという気持ちになった。  私の問いかけに 「高砂町から来ましたの、と言ってもピンときませんわね。駅は木田端駅ですわ」  木田端駅はみっつ行った駅だった。 「そちらのベンチに行ってよろしいですか」 「アッ、どうぞ、どうぞ」  老婦人の言葉に私は慌しい調子で答えたが、ちょっとびっくりした。隣にくるということは、会話をするということを意味していた。初対面の人と散歩の途中そんな風になるなど全く考えられないことだった。だが、断る理由もない。私は少し身体をベンチの左側に移動して老婦人が腰を下ろすのを待った。  腰を下ろすと同時に老婦人は 「主人がアチラの病院に入院しておりますのよ」  肘を曲げて斜め右側の方向にマニキュアが塗られた指先を伸ばした。婦人が指さす病院がどこなのか直ぐに分かる。土手の向こうに上の方の数階だけ頭を出したビルの奥にそびえる屋上に四角い柱の立花総合病院と赤い文字を掲げた病院である。この辺りでは最も大きな病院だった。 「そうでしたか。面会の前に途中下車したわけですね」 「ええ、電車のドアの近くに立って表を眺めていたら、表を歩く人がこの陽気にみんな気持ちよさそうに見えて、そのまま、電車に鉄橋を渡って病院のある駅まで連れて行かれることに反抗したくなって途中下車したんです」 「病院っていうところは、いくら建物が立派で、内部が明るくても、辛気(シンキ)臭い部分がありますからね」 「そう、辛気(シンキ)臭い。我々が生きていくために必要不可欠の場所ではありますが、とっても適切な言葉の気がします。それに毎日のように来ていると疲れちゃうんですよ」 「そうでしょうね。身内の病人相手じゃ神経もいろいろ使うでしょうし。入院は長いんですか」 「ええ、入退院を何度か繰り返しまして、今回は覚悟してください、って先生に言われてもいるんです」  老婦人は淡々とした調子で言った。今回は覚悟してください、って、どんな病気なのだろうか。癌が転移した状態まで進行してしまったのか。あえて、病名は聞くまい。 「ご主人、闘っていらっしゃるんですね」 「はい、負けず嫌いの人ですから、頑張ってはいますけど。主人の病室、十階の右から二番目。ええと、上から三番目の窓の列ですわ」  老婦人は再び指を持ち上げたが、その指は、さっきみたいにピンと伸びてはいなくて、身体の近くで関節の部分で山を作っていた。その代わり、顎が心持ち持ち上げられ、視線をしっかり病院の窓に向けていた。 「ああ、あそこですね」 「いつも私が病室に入ると、オオーって、つまらなそうな声で出迎えるんです。もっと、嬉しそうな反応示したらって言うと、俺は病人だよ、そんなことに気を使えるかって」 「照れですよ。本当は感謝でいっぱいのはずです」 「そうかしら。失礼ですが、今日はお勤めお休みですか」 「いえ、つい最近、会社はリタイヤしたんです。ご主人はサラリーマンをなさっていらっしゃったのですか」 「会社を経営していたんです」 「社長さんですか」 「でも、社員が五十人に欠ける中小企業の社長ですわ」 「五十人近くも入れば、立派なものですよ。だけど、社長さんが入院してしまったら、会社は大変ですね」「息子が専務をしてまして、実務は全て息子が動かしています」 「じゃあ、安心だ」 「だといいですけど、厳しい時代ですから」  老婦人の言葉に私は相槌を打つ。  息子が専務というからには、入院しているご主人はオーナー社長なのだろう。 「もっと身体を寄せていいですか」 「エッ、いいですけど」  私は戸惑いながら答えた。 老婦人の真意が私には分からない。 「ごめんなさいね。実は、急に主人に悪戯(いたずら)をしかけたくなっちゃってお隣に座らせていただく作戦に出たんです」 「悪戯ですか」 「そう、刺激的な悪戯。でも、身体を密着させた方がより効果的なのは間違いないように思えましてね」  老婦人は仲睦まじい恋人同士のように私に身体を横から密着させてくる。  老人であっても、相手は女性である。変な気分だ。 「すいません、これがご主人に対してどんな悪戯になるんでしょうか」  入院するご主人の病名と違ってこちらは聞かずにはいられない。 「答えないわけにいきませんわね。うちの主人って、突然、お前、今日かっこいい男にグラッときただろうか、とか浮気してんじゃないか、などと言ってくる人なんです」 「ヤキモチ焼きなんですか?」 「かも知れません。でも、浮気など考えてもいないこと言われたら腹が立ちますでしょう?」 「分かります」 「心眼って言葉ございますよね。辞書を引くと物事の本質を見抜く、などと書かれている」 「ええ」 「うちの人はやたらあの言葉を使いたがる人でして、適切な使い方とは思えないのに、お前がちゃらちゃらした男に寄り添う姿が心眼に映ったとか言ってくるんです」 「透視とか超能力と言った方が当ってますかね」 「まだね」 「心眼って言葉、奥が深そうで響きもいいじゃないですか。だからでしょう。私の中の心眼という言葉を植えつけてくれたのは勤めていた会社の同僚なんです。何十年も前になります。同じ部署の彼は私よりふたつ年上でしたが、私に随分とライバル意識をもっていた男で、一緒に飲んだ時に言ったんですよ。俺は柳生心眼流の使い手だからな、って」 「柳生心眼流?柳生芯陰流なら聞いたことありますけど」 「ええ、私も同じこと言ったら、いや、柳生心眼流というのがあるのだ。俺が言いたいのは、つまり、君がいかに上手に会社の幹部連中に取り入っているかなどということは、お見通しだってことだよ、なんて言われました」 「競争意識丸出しですわね」 「いいとこもある男でしたけどね」 「どうでした、出世レースは?」 「同じようなものでしたね。すいません、話をそらせてしまって。ご主人は奥さんが浮気をすれば、すぐにばれるんだと言ったわけですね」 「全くばからしい話」 「本気ではないでしょう。それだけ、奥さんを愛している、誰にも渡したくないというご主人なりの表現法だと思います」 「だといいんですけど、そんな男が何度も浮気をしますかしら?」 「何度も浮気。そうなると、浮気をしてるんだろう、は違った意味にもとれてきちゃうな。自分の浮気のいいわけとかカモフラージュとか。ご主人の浮気は、心眼とかのレベルではなかった?」 「おっしゃる通り。離婚も真剣に考えました」 「だけど、波風はたってけど、とにもかくにも、離婚せずにやってこられた」 「ええ。アアー、嫌だ。最高に腹がたつ女の顔を思い出してしまったわ」 「どんな女性ですか」 「お聞きになりたい?」 「ええ」  私は素直に言った。 「大柄な女性。強気な傲慢で嫌な女だったわ。取引先の女社長だったんだけど、電話をかけてきて、ご主人の口からは、いろいろ考えているって言葉が出ておりますわよ、って言いますのよ。品性のなさが電話線を通して伝わってきましてよ」 「いろいろというのは、奥さんと別れることを考えているとか、そういうことですね」 「そう?だから、私言ってやりましたの。主人に確認してみますわ、って」 「確認したんですか」 「もちろん。俺はそんなこと言ってない、ってしどろもどろに言い訳した後、大事なお得意さんなんだから、そっとしておいてくれなんて、調子のいいこと言うものですから、噴火しました」 「噴火ですか?」  老婦人が表面的なイメージとかけ離れた言葉を強い口調で言ったのに思わず笑ってしまった。 「そうですよ。噴火ですよ。それは、会社は発展してもらいたかったですよ。でも、噴火ですからね。彼女と決闘しました」  噴火の次は決闘ときた。  鉄橋を銀色の車体にオレンジのラインが描かれた電車が渡っていく。 「決闘の時、ご主人は?」 「いませんでした」 「それで、奥さんが勝ったわけですな」 「ええ、主人は現在リコンのリの字も考えていない、なんなら、そこレストランだったんですけど、主人の会社に電話なさったら、って言ってやりましたの。そしたら、席から立ち上がって、バカらしい、でも、ご主人には、とても感謝しております。なにしろ、身体も心も大変親切丁寧に扱っていただきましたから、ってキッと私を睨んで立ち去っていきました。身体も心もなんて、下品極まる言い方でしょう?」 「考えると怖い風景ですね」 「女同士の視線が剣になって空中で火花を散らすって感じ。まさしく決闘」 「ともかく、それで一件落着したわけですね」 「でも、平和的解決ではなかったんですよ。取引停止という条件が、後からやってきたんです。これは、主人から聞いたのではなく、息子に聞いたんです。もっと、安く同じ製品が入るからそこからはいるようにするとか言ったそうです」 「ご主人としては、自分の浮気がそもそもの元ですから、何も言えないわけだ」 「そういうことです。アアー、なんてことでしょう。きれいな景色を楽しみたいのに、変な女の姿がまだチラついているわ」 「私が現れたばかりにすいません」 「とんでもない。突然の図々しいお願いで、すいません」  老婦人の左腕と私の右腕が密着している。 「本物の恋人同士みたいですね。ご主人のまぶたの裏にこの光景が映し出されていて、病室に入った途端、オーの代わりに、お前さっき浮気していたな、俺の心眼がばっちり捕らえたぞ、なんて言ってくるかも知れませんよ」 「アハハッ、私の悪戯の意味分かっていただけたようですわね。主人が何も言わなかったら、私から聞いてみますわ。今、素敵な中年の方とベンチで身体を寄せ合っていたんだけど、見えました?って」 「男性としてはちょっと可愛そうな気もするなあ」 「そうですか?私にとっては、十分の一にも満たないお返しのつもりですけどね。お宅様は奥様を女性問題で悩ましたことなんてないでしょう?」 「それはないですね。テレビの中の女優をやたら誉めた時、ちょっと不機嫌にさせる程度位はありますけど」 「羨ましい」 「うちのは、鈍いんですよ」 「じゃあ、隠れて浮気したことございますの?」 「軽く好意をもった程度で、食事に行った程度です」 「素敵な女性でした?」 「まあ」  私は経理の仕事で大手人材会社から派遣されてきた新里恵子という女性を思い出していた。当時、私は四十代半ばで次長職にあった。彼女は確か二十八歳だった。  私と彼女が親しく言葉を交わすようになったのは、通勤の時、一緒に歩く機会が多かったせいである。私はJR,彼女は私鉄を利用していたのだが、駅に着く時間帯が同じ電車に乗っていたからだろう。何度か会社までの道を一緒に歩くことになったのである。 女子社員の中にはオジサンと歩くのが嫌なのか、「おはようございます」と言うなり歩くスピードを落としたりする女性もいるものだが、新里恵子はまるで気にしない様子で私と肩を並べて歩いた。 「話しやすい女性で、言葉のキャッチボールがうまく話題をつないでいくことが出来る女性だったんですよ。だから、朝、彼女と会うとなんとなく嬉しくなったものです」 「だんだん、興味が湧いてきました。その先が早くお聞きしたい。お食事にいったわけね」 「ええ、その日は、たまたま、帰りに一緒になって、なんとなく浮き浮きした気分で銀座にあるシャンソンを聴かせるパブに誘っちゃったんですね」 「シャンソンですか。おしゃれ」 「いえ、私がシャンソンを聴くのを趣味にしてたわけじゃないんです。取引先の人に連れていってもらったことがあって、その店に連れていったわけです」 「お酒を飲んでシャンソンを聴いて、さぞや、ロマンチックな気分になられたんでしょうね」 「こんな雰囲気のところに来たの初めてって喜んでくれましたけど、そこまででした。店を出た時、ここで終わるのが一番いいんだと、思っちゃったんですよ」 「理性的。皮肉じゃありませんよ。それが正解です」  老婦人は頷きながら言った。 「全く、あの人ときたら」  老婦人は口を尖らせ向こう岸の病院の建物を見ている。その目がキッとしたきついものであるのは横からでも分かる。  つい、余計なことをしゃべってしまったような気がしてくる。 「最後にギュッ、と」  老婦人は強く私に身体を押し付けると、 「ありがとうございました。これから、病院にいってあの人の心眼とやらが、どれほどのものか確かめてきますわ」 とベンチから立ち上がった。 「やさしくしてあげてくださいよ。相手は病人なんですから」 「さあ、どうかしら」  老婦人は笑みを洩らし、斜めの道を下っていった。  私は老婦人が言った立花病院の窓を見つめる。 頑張ってくださいよ。奥さんは、私を使って、あなたに嫉妬の火を燃え上がらせ、病気に打ち勝つ元気を取り戻してもらいたいんですよ。ロッキー、ご覧になりましたか。ロッキーみたいに再び元気になることを願っているんです。  私はご主人にエールを送った。  とんだ、ハプニングの散歩になった。私は足を組みスニーカーを履いた足首を軽く動かした。  新里恵子の姿が浮かんだ。彼女の派遣は一年で終了した。あれでよかった。  電車が鉄橋を渡っていく。  老婦人が乗るのは次の電車だろう。 「あなた、さっき、心眼働きました?」  問いかける老婦人。ご主人は何と答えるだろう。 私は立ち上がり深呼吸した。 帰り道、柳生心眼流を会得していると言った磯田弘一のことを思った。にきびの跡が顔一杯に残った丸顔で黒縁の眼鏡をかけた男だった。同期だからといって、私にあれほどの競争意識を持つ必要はなかったのではないか。武士の情けで言えなかったが、実は彼との出世競争は余り続かなかったのである。小豆相場だかに失敗し、金貸しの業者が会社に押しかけるようになって、やめていっただった。奥さんとも離婚したと聞いた。元気であって欲しい。 インターホンを押して、帰りを告げると妻が出てきた。 「歩きました?」  ダイニングのテーブルの上に私の好物のプリンを置き、コーヒーをマグカップに注いだ妻は言った。 「土手に行ったんだ」 「そうかな、とは思ったけど」 「私も行ってみようか、なんて思わなかったか」 「別に。でも、あなたが土手に行ったんなら、モーターハングライダーが、あの日みたいに飛んでいて欲しいな、とは思った」  妻は答えた。[了]
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