不在卒業

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不在卒業

 隣家から子供の悲鳴が聞こえてきたのは夏ごろだった。隣の家にはこの春引っ越してきたご家族が住んでいる。物腰柔らかなご主人に線が細いが優しい奥様にまだ幼稚園に通っている小さな女の子。幸せそうな家族だった。  それに気が付いたのはたまたまだった。隣家とは言ってもこの辺りは田舎なのでどの家にも庭がある。建物はそれほど近い場所には立っていない。その日、私は昼間に庭の草刈りをした道具をしまい忘れていたことを深夜になって思い出したのだ。明日の朝に片づけてもよかったのだが、また明日になったら忘れてしまっているかもしれないと思い庭に出た。  昼間に使っていた道具を抱えて庭の隅にある倉庫に向かって歩いていた。倉庫に道具を閉まって外に出た時、子供の押し殺すような鳴き声と鈍く響く重低音が聞こえてきた。それは隣の家のわずかに開いた窓から聞こえてくるようだった。私が思わず身じろぎするとその音に反応したかのように子供の声と物音はしなくなった。  一体何だったのだろうと隣のご家族に聞いてみたが部屋を片付けしている時に娘が転んだのだと聞いた。あんな深夜に部屋の片づけ何てするだろうか? と私は疑問に思ったがそれ以上追及はできなかった。それからしばらくして、ご主人を平日の昼間に家の中にいるのを見かけるようになった。たしか会社勤めをしていたはずなのだが、転職されたのだろうかと思っていた。  さらに数週間が経った頃、奥さんの表情が明らかに暗くなってきていた。もともと細かった体は今は枯れ枝のようにやせ細っている。顔色も化粧で誤魔化しているが随分と土気色になっていた。何より娘の様子がおかしかった。最初に会った頃は元気に挨拶をしてきてくれていたのだが、最近は目線も合わせようとせず母親の足元に隠れるようにしている。  それどころか私が近づこうとすると明らかに距離を取るようになった。一度頭を撫でようとした時など体の全身を震わせて私の手を振り払った。そして何度も何度も「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と謝り続けていた。  私はその様子を見て奥さんに言った。 「こんなことを聞くのは失礼とは思いますが、ご主人から暴力を受けていませんか?」  奥さんは「そんな事ありませんよ」と弱弱しい笑顔で答えた。私は妻と相談をして児童相談所にも相談したが決定的な証拠はなかった為、相談所も自宅訪問をして様子をうかがう事しかしてくれなかった。児童相談所の職員が来たその日の夜、子供の悲鳴が聞こえてきた時には自分の行動を後悔した。いても立ってもいられず隣の家のインターホンを鳴らしたが、ご主人が爽やかな笑顔で出迎えてくる。  家庭内暴力について問い詰めても「躾ですよ」とのらりくらりとかわされるだけだった。奥さんと娘は脅えてただご主人の言葉を肯定するだけだった。どうにか証拠を掴まなけれないけないと学校やほかの近所の人間に聞き込み等を行ったが成果は芳しくなかった。  まだ夏の暑さが残る九月の初秋。突然、ご主人が失踪した。ご主人はこの春に職場で出世に響くような大きなミスをしてしまったらしく、その後そのミスを取り返そうと不正取引をしてしまった。そしてそれが会社に発覚し夏前に仕事を辞職していたらしい。その後は再就職することも仕事を探すこともせず家でずっと酒を飲んでいたらしい。  ギャンブルにも手を出していたらしく奥さんが知らない内に多額の借金をしていたらしい。しかも、借りたところが合法的なところではなかったらしく、家にも何度も取り立てにやってきていたという。確かに、私も何度か怪しげな風体の人間が隣家に入っていくのを目にしていた。その借金から逃げるようにご主人は姿を消したらしい。  奥さんには多額の借金が残されてしまった。しかし、それからの奥さんは逞しかった。朝も昼も夜も休みなく働いて借金を返済していったのだ。働いている間、娘を預かってほしいと頼まれたので、私と妻は二人で子供の世話を引き受けた。最初のうちは脅えていた娘も次第にもとの明るさを取り戻してくれて、私にも懐いてくれるようになっていった。朝早くに出かけて行って夜遅くに返ってくる母親を娘はいつも私の家で寝ずに待っていた。    母娘で一緒に居られる時間は少なかっただろうが、それでも仲の良い親子だった。父親が失踪して数年がたった頃、借金を返済しきった時は妻と共に喜んだものだった。奥さんは本当に凄い人だし、尊敬すべき人だと妻と話した事を覚えている。  しかし、そんな奥さんだったが一つだけ懸念というか心配な点があった。彼女はご主人が失踪した後も彼がまるで家に住んでいるかのように振舞っていたのだ。ご飯を作れば三人分を用意するし、日常会話の中でも働いてくれない旦那に対する愚痴が出てきていた。何度も失踪したと伝えてみたが、彼女は失踪の話をすると首を傾げるだけだった。  その内に私と妻はその事には触れないほうが良いのだということになった。病院を進めたこともあったが本人は時間もお金もないからと決して病院にいこうとはしなかった。きっと、ご主人が家族を捨てて逃げたという事実を心が認めることができないのだろうと私たちは考えたのだ。 例え、家族に暴力を振るうような人間だったとしても、心の支えだったのかもしれない。それとも幸せだった頃の記憶だけが残っているのかもしれないと私たちは予想したのだ。  あまり無理に現実を認めさせても彼女の心の負担になるだろうと考えたのだ。  ご主人が失踪して七年の月日が流れた。ある日、私の勤める家庭裁判所に奥さんが現れて私は驚いた。要件を聞いてみると、失踪宣告の手続きに来たという。失踪宣告とは行方不明になり生死不明になった家族が一定期間過ぎた時に死亡していると公式に認める為の制度だ。行方不明のままでは戸籍や財産の問題が発生してしまう事が多々あるためそれを防ぐために行方不明ではなく死亡したと取り扱うのだ。  私は驚いた。彼女はずっとご主人の失踪を認めていない、心が拒否していると思っていたからだ。驚いた私の顔をみると彼女は弱弱しく笑った。 「すいません。いままで私のワガママに付き合ってもらって。でもそろそろ現実を認めないと」  私はそれを聞いて頷いた。知り合いの弁護士を紹介し、失踪宣告を成立させた。失踪宣告が認められた日から彼女はご主人がそこにいるような態度をしなくなった。 「こんな事を言ってはいけないんでしょうが、おめでとうと言わせてください。あの男の事に囚われる日々からは卒業できたと私は思いますよ」  私の言葉に奥さんは深々と頭を下げた。 「お二人には本当にお世話になりました。これからも友人としてお付き合いさせていただければと思います。でも一つだけ間違っていますね」  彼女はそう言って頭を上げた。 「」  顔を上げたその表情は驚くほど薄く酷薄な笑みが浮かんでいて。  その意味に気が付いた私は顔をひきつらせた。
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