もしもし真夜中

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「もしも「ゆーか?」 静かな秋の夜だった。落ちそうになる瞼を何度もこじ開けて、最大限明るくした部屋で夜が通り過ぎるのを待っていた。ぐりぐりと鉛のように痛む瞼を押さえて、握りしめていたスマートフォンを開く。通話を始めるのと同時にテレビ番組も切り替わった。NEWS ZEROが始まって、女性キャスターの滑らかな声が反対耳に滑り込む。 「、いつき?」 「んー、そう、おれ」 どこか舌っ足らずな声だ。今日は確か、会社の人と飲み会だと言っていた。そこまで弱くないはずの樹希がここまでになってしまうのは珍しい。きっとよほど楽しかったのだろう。 酔いが回ったときの樹希の声は耳に毒だ。心ごと引きずりこまれてしまいそうになって、耳を侵されているようで。聞くたびにこのまま死んでしまいたくなる。 「……いまどこ?」 話し出す気配の名にないスピーカーの向こうに問いかける。一瞬耳から話して確認した画面、発信者番号には「公衆電話」と書かれていた。 「んー。もしもボックスのなか?」 「なに言ってるの」 本気で言っているのか、冗談なのか、酔っ払いの戯言は面と向かっていないと余計に判別がつかないのが質が悪い。それこそ「もしも」の話だ。くすりと笑いが漏れる。 「もしもボックスなら、なに言ってもゆるされっかなーって思ってさぁ」 「うん、」 「あいつらムカつくから」 「今日飲んでた人たち?」 「そー」 まじむかつく。そう悪態をつく顔はきっと幸せそうな顔なのだ。その言葉に、いつもの同期の人たちで飲んでいたのか、と結論付ける。大学も一緒だったらしい彼らは、卒業後も懲りずに飽きずに飲み会を開いている。 言ってる中身と行動が一致しない樹希ももういつものことだ。想像して、ちょっと笑えて、無性に会いたくなった。 「早く帰っておいでよ」 「そうしたいのはやまやまなんだけど」 「だけど?」 「まだ『もしも』してねー」 「じゃあ早くしてしまいましょう」 「んー、」 夜は長い。消し損ねたテレビが、静けさが戻ってくるのを妨げていた。静かでどうしようもない夜の訪れを引き延ばす。それでも日が昇るまであと四分の一日。無機質で冷たい、薄っぺらい機械は、息遣いが聞こえるだけで温かく感じてくるから不思議だ。ありもしない、見えない糸はきっと赤色で、樹希の左手につながっている。 何かを飲み込んだような、喉が鳴る音が聞こえた。少しくぐもった、何かを置く音が聞こえた。ふーっと息を吐く。 「今日さ、翔たちと飲んでたの」 「いつものメンツ?」 「そ。毎日顔合わせてんの。せっかくの飲み会なのにくそも変わんねぇ顔。」 「ふふっ。嫌じゃないんでしょ?」 「嫌だったら飲んでねー」 「そういうとこ素直になりましょーよ」 「ゆーかにだけはいつもすなお」 「…不意打ち」 「おれの勝ち」 「負けました」 「でだな、」 「うん」 「みんなの彼女の話になって、ゆーかがかわいいって」 「、ん?」 「大学生のころからかわいかったから、今の写真みせろって、癒しって、おれのスマホ取り合いになって」 「…」 「あいつらパスワード間違えまくったせいで画面ロックかかってんの」 「えぇ、」 「ばかだよなぁあいつら」 長くなるかな。ソファに腰を下ろして、全体重を預けてみた。勢いあまってぼふん、と弾む。 「ゆーかは、おれのだってのに」 一瞬で落とされた爆弾に、いちどしんだ。 あ、やべ、金。そう呟いた彼の声も素通りする。誰も見ていない顔を隠すのに必死だ。 絶対真っ赤、熱い。いつも言わないのに。独占欲むき出しで噛みつかれた気分だ。 電話越しで良かったと心底思う。こんなとこ見られたら何されるか分かったもんじゃあない。じたばたと一人で悶えているその向かいで、テレビだけが何事もなかったかのように今日を締めくくりにかかる。 〇〇町で起きた火災が、今年の夏の自殺件数が、秋の幸が、私の世界を広げる言葉が急に遠ざかった。 また、喉が鳴ったのが聞こえた。コツン、と何かを置く音。軽くて、硬い、そんな感じの音だ。はぁ、と駄々洩れの色気に中てられた私は、いつまで正気でいられるだろう。 「なーなー」 「なぁに?」 この一瞬の間が、樹希の声に余計に甘さを孕んだ気がする。私の想いはもうとっくにどろどろに溶けてしまっていた。溶けたそれが蒸発して消えてしまわないように、必死にかき集めている。 「ここから先が一番言いたかったことなんだけど、」 「最近、おれのこと避けてるの、なんで」 電話を握った手がぴくりと震えた。 「そ、れは」 「なに、言えないの?」 きっと私が、毎晩一人で葛藤してたなんてお見通しだったのだ。待ってくれていたのだろう。今日のお酒の席で何か、箍が外れてしまったのだ。申し訳なさ過ぎて、自分が許せなくて、泣きたくなる。唇を噛んだら乾燥してひび割れていたそこから鉄の匂いがした。 一見冷たい言葉と裏腹に、私を永遠に甘やかしてしまいそうな樹希の声が流れ込んできて、私の想いだけじゃなくて体さえも中からどろどろに溶かしてしてしまうような気がした。 「ゆーか、おれじゃだめ?おれなんか足りない?」 「おれのせかい、ゆーかがいないと止まっちゃうんだよ。朝起きておはよう、って言ってエンジンかけて、寝るときおやすみ、って言って、それでやっと終われるのに。朝早いのわざとでしょ?夜もくっついてこないじゃん。もうそろそろおれ死んじゃう」 「いつき、」 「待ってよっかな、って思ってたけど、夕佳はそれじゃだめなんだった」 「ごめ、」 「あー。こんな話、酔いに任せてするもんじゃないのはわかってんだけど、いざ嫌われてたら耐えられねーって思っちゃって、面と向かってする勇気もなくて、」 だから帰れねーの。へらりと笑う顔が浮かんでくる。 樹希はあまり笑わない。笑うのだけど、人から見てわかるほど大きく笑ったりしない。ちょっとだけ目じりが下がるとか、右口角が持ち上がるとか、目の奥が優しく溶けだしているとか、他人から見たら些細な変化だけど、そうやって笑うのだ。 顔が目に見えて笑っていればいるほど、悲しかったり悔しかったり、くるしい感情が綯交ぜだと知ったのは、きっと初めて感情のままにぶつかっていった時。 それまで全然笑ってくれなくて、いやいや付き合ってくれてるんじゃないかって勝手に疑って勝手に怒って、目の前にいる樹希からの逃げ出した。その時の自嘲した樹希の顔は、もう一生忘れられない。 「この間さ、樹希出張あったじゃん」 「うん」 「その時に不眠症、治りきってないの気が付いて」 「え?俺と一緒の時」 「いつきと一緒じゃなきゃ満足に寝れないの。この前もずっと電話繋がせちゃったし、それじゃだめだって、」 「だめじゃな「だめなんだよ」 「今も眠れないどころかテレビも消せない。電気もあちこちつけっぱなしだし、今も樹希のパーカー被ってるし、それでも夜が怖い」 「ゆーか、」 「だから、樹希離れしなきゃって、もし何かあったときに」 「そのもしもは考えんな」 「でも」 「おれは!」 強い語調にびっくりして、危うくスマホを落とすところだった。跳ねた肩から伝播した揺れはソファに伝わって、ぎしりと少し嫌な音が鳴る。相変わらずテレビはついたままだ。 私だけの騒がしい夜はもう嫌だ。 これだけ醜い部分を晒しても甘やかしてくる樹希はもっといやだ。 「おれは、それでもゆーかが好きだよ。置いてかない。絶対独りにさせない。」 「変わりたいなら言ってよ、手伝うから。一緒に進もうよ」 「今もほら、やっと言ったなって想いでいっぱい。おれ、嬉しいよ。」 それに。と続く声に少し期待している自分がいた。反対の耳から何となしに流れ込んでいたニュースはもう、煩わしいとさえ思っていた。 「もしもの世界なら、夕佳の中が俺でいっぱいだったら、を願うよ」 「……今ももういっぱいだよ」 「溢れ出て止まらないくらい」 「それはちょっともったいないかな」 「溢れた分は俺に還元で」 「それはいいかもしれない」 「そうしよ。あ、小銭無くなりそ」 「なら、帰ってきてよ」 「うぉ、ついでにスマホ生き返ったわ」 「おめでと」 「んじゃ、ちょっと待ってろ」 がちゃんと受話器を置く音がした。握りしめたまま、自分の体温が移ってしまったそれを手放すのさえも惜しい。じわり滲んでくる視界にきつく目を閉じる。 どこから帰ってくるのかすらも聞いてなくて、いつ帰ってくるのか皆目見当もつかなくて、少し泣きたくなった。泣きたくなって、これじゃあだめな自分のままじゃないかと気が付いてしまって、一層泣きたくなる。 「…布団に潜ってようか」 立ち上がろうとした。瞬間握りしめていたスマホが震えて、今度は本当に落としてしまった。 見事に背面落ちした画面には「樹希」の文字が光っている。 「…っ、もしもし!」 「何をそんなに意気込んでるんですかね」 「スマホ落としちゃって、」 「ははっ、割ってない?」 「だいじょうぶ」 ざっ、ざっ、足音が聞こえる。車の音だろうか、少し遠くに喧騒が聞こえる気がする。 「あと五分くらいで着けそう」 「近いね?」 「こんな近くに公衆電話ってあるんだな」 「昭和の忘れ物感だね」 「わからなくはない」 どうでもいい話が心地よい。ベッドに向かおうとしていたその体を、もう一度ソファに預ける。今度はそっと体重をかけたら、それでもぎしりと音が鳴った。 「ねぇいつき、ひとつわがまま」 「どんとこいですよ」 「帰ってきたら真っ先にぎゅってして」 「俺さけくせーよ?」 「それでもいいから」 「ならお姫様抱っこのオプション付きで」 「それはちょっと重いよ」 「夕佳が生きてる重み」 「おおげさな」 笑った。二人で笑った。 先までのシリアスさなんてどこ吹く風だ。純粋に話すためだけに通話を繋ぐことはあまりないけれど、こうして繋いでみて面と向かってたら気が付かないようないろんな声色が聞こえることに気がついた。 座ったらなんだか落ち着かなくて、窓に向かう。カーテンを細く開けて真夜中を見下ろしてみた。夜は想像していたよりとてもとても明るくて、樹希を見つけられないかときょろきょろしてみる。 「あ、缶置いてきた」 唐突に呟かれたそれに、外から注意がそれた。 「缶?」 「…ビール飲みながらしゃべってた」 「うわぁ、まさかそんな」 「明日取りに行くわ」 「じゃあそれついてく」 「おっけ、とりあえずいっそいで夕佳のとこ行くわ」 「いまどこ?」 がちゃり 「もうすぐ夕佳の真後ろ」 両耳から同じ音が聞こえた。はっと振り向いた瞬間、顔を見るまでもなくお酒の匂いと、大好きな人に包まれた。ごとりとまた落ちたスマホは見事な背面落ちを決めていた。 「ただいま」 「おかえり。おさけくさい」 だから予告しただろ。ふてくされる樹希の顔がかわいくて、頬に口づけた。 「…っ。煽んなばか」 「んっ」 真夜中のキスは刺激的で、甘美で、麻薬のようだ。中毒になってもう一生抜け出せない。 目が合うと、どろどろの瞳に私が移りこんでいて、それだけでもう、ころされてしまうのだ。ほんのり上がった口角に指を這わせる。くすりと笑うと、瞼にキスが落ちる。 「もしもボックスの世界は、最高ですね」 「もしもじゃなくて現実なんですよ」 「それは最高だな」 肩越しに長い腕が伸びてカーテンが閉まった。 「夕佳、明日の予定は?」 「おやすみですね」 「ならたっぷりお休みとって、だらだらするのはいかがでしょう」 「そうしましょ」 大好きな体温に包まれて、小さくあくびを噛み殺した。案の定すぐに気づかれて、超特急でシャワーを浴びてきた樹希と二人、お天道様が一番高くなるまでお布団にくるまれていたのはまた別の話。
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