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雨でぬかるんだ地面がやけに柔らかく、泥でまみれた指がぼやけた視界の先に見えた。限界を迎えた私は抗う気もなく目を閉じる。地面についた頬の冷たい感触が徐々に薄れていく。
夢を見た。幼い頃の懐かしい記憶。世に言う走馬灯なのかもしれない。ああ、私死ぬんだなと冷静に理解した。
私には幼なじみがいた。総という名前の、女の子みたいに可愛い顔をした男の子。毎日近くの市で店と店の間を縫うようにして駆け回り、近くの山の中でかくれんぼをしたことを今でも覚えている。夏は蝉を捕まえて、冬は雪合戦をしてまるで兄弟のようだった。
だけど大抵、そうやって無邪気に笑いあえる時間は長く続かないものだ。後から知った話だが、彼は名家の後継ぎだそうで、私と会うときはこっそり屋敷を抜け出していたらしい。一方の私はただの桶売りの商人の娘。まさに幼さゆえにできた偶然の繋がりである。だから次第に会える頻度が減っていったことも、十歳になる頃には総は遠く懐かしい思い出の中の人になってしまったことも、始めから決められていた定めだったのかもしれない。
(会いたいなぁ……。)
日溜まりのような笑顔を浮かべる、色素の薄い髪をした思い出の象徴。私はあの頃が一番幸せだった。清らかな無知さも相まって、不安なことなんて何もなかった。
草の陰に埋もれて大地に帰る前に、もう一度だけでいい、総の顔がみたい。会話ができなくてもいい。ただ一目みて、私の人生は幸せだったと思いたい。
(あれ、)
遠退く意識の中、私は確かに誰かの気配を感じた。どうやら二人いるようで、バラバラの足音が近づいてくる。こんな真夜中のぬかるんだ山奥にくるなんてだいぶ物好きだ。
もしかしたら私の死体が見つかってしまうのかもしれない。人に看取られて嬉しいと思う反面、肢体を荒らされて売られでもしたらどうしようと心配になった。どうせここにくる人間にはろくなのがいないし、後者の可能性が高いだろう。
(こないで……、せめて綺麗なままでいかせて。)
そう願うも、泥が跳ねる音が近づいてくるのがわかった。私はなぜかはっきりしてきた意識の違和感に気づかず、微動だにしないように努めた。しかし音はもうすぐそこまで来ていた。
「あれ、」
驚いた声がした。気づかれた。人生の終わるという時に、この上ない絶望感に包まれた。もういっそのこと早く意識が飛んでほしい。
「なんかいたんすか。」
仲間の声も聞こえた。バチャバチャと大きい音を出して私の頭上あたりに来たようだ。
「あぁ、猫ですかい。」
仲間の男が呟いた。私は心の中で首をかしげた。猫とはなんだ。女子を猫呼びするなんて聞いたことない。変な人たち。
その直後、両脇に手を差し込まれて体が持ち上げられる。私はなんとかぎゃあと悲鳴を上げるのを我慢した。死にかけでも生きているとばれたら、抵抗できない私は何をされるかわからない。
「おーん、汚ねぇけど、べっぴんさんの三毛猫っすね。洗えば売りもんになるかもしれねぇ。」
「……平八、その子こっちによこして。」
また別の人物の声がして、私は自分が別の人物に抱き抱えられたのがわかった。身構えたことろで今度は頭を撫でられる。まるで本物の猫を愛でるように。
私は自然に涙が出てきた。今までの人生で、こんな風に優しく撫でてもらってことなんてない。泥のせいで体温がかなり低いためか、その手はお日さまのように暖かかった。
「なんでこんなとこに……。」
「猫ってのは自由ですからね。どこで生きようが、どこで死のうが猫次第っすよ。」
「へぇ……そう。じゃあ、僕と正反対だね。僕はどちらかといえば籠の中の鳥だ。こうやって外に出られることすら珍しい。」
「まあ、そりゃ文句言っても仕方ないっすよ。総様は次期当主となられる特別なお方ですから。」
私は「総様」という単語に反応した。顔を見て確認したい。しかしそうしてしまうと生きているとバレてしまう。しかし好奇心に勝てなかった私は、とうとう薄目を開けてちらりと自分を抱き上げている人物の顔を盗み見た。
「あっ……!」
今度は驚愕のあまり声を抑えきれなかった。昔の可愛い面影は消え、むしろ凛々しく精悍な顔つきになっている。ただその色素の薄い髪の毛は相変わらず柔らかく風になびいていた。
「コイツ、なきましたね。」
「どこか痛いのかな。僕、はじめて猫を抱いたから下手なのかも。」
そう戸惑った声を出す青年。私はその言葉を聞きながら再び涙がこぼれそうになった。猫がどうとかいう違和感のある言葉は今の私に届かない。なぜならこの青年こそ、まぎれもない昔遊んだ総、その人だったからだ。
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