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「猫ちゃんの匂い、付いちゃったんですか?」
「ええ。まあ」
僕の手には、消臭剤の入ったビニール袋が握られている。
今日も、僕とその子はベンチの両端ぎりぎりに座って、毛づくろいをしている鈴木を眺めながら会話をしていた。
僕達はまだ名前も交わしていない。
ちらりと視線を向ければ、彼女もこちらを見ていて、視線がぶつかってしまう。
ベンチに置いていた彼女の手が、少しだけ僕の方へ寄ってくる。
それだけで、妙に心臓が高鳴った。
彼女は一緒にいて楽だ。
他の女子みたいにキャーキャー騒がないし、無理にデートに誘ってきたりしない。
ボディタッチもなければ、あれやこれや僕に質問してきたりしない。
でも、お互い名前も知らないままでは、これ以上の関係は望めないだろう。
僕から勇気を出さなくてはいけない。
「でも、私はそんなに気になりませんでしたよ?」
「いや、臭いとかじゃないんですけど、鈴木がどこかのスイーツ店を気に入っちゃって―――」
(しまった)
つい、鈴木の名前を出してしまった。
額に変な汗が滲む。
だが、すぐに僕は考えを切り替えた。
(まあ、いいか。どうせ、もう僕のことを変質者だなんて思っていないだろうし、むしろユニークな名前で呼んでいることで、興味を持ってもらえるかもしれない。もういっそ、僕がこの猫のことを鈴木と呼んでいることを言ってしまおう)
「スイーツ? ああ、もしかしたら、あの交差点のアイスクリーム屋さんかもしれないですよ。お店のおばちゃんが、この前猫缶買ってるところ、見かけましたから」
「え? ああ、そうですか」
僕がしょうもない小さな覚悟を決めた直後、彼女はひらめいた顔をしてそう言った。
僕は間の抜けた短い返事を返し、呆然と鈴木の顔を見つめた。
鈴木が一つ伸びをして、ベンチから飛び降りる。
(僕、猫の名前が鈴木だってこと、前に話しただろうか……。鈴木と聞いて猫の名前だと、こんなにも直ぐに察してくれるものだろうか……)
鈴木がぼてぼてと去って行く。
すると、すぐに女の子はベンチを立った。
鈴木を追う彼女から、バニラの甘い香りがふわりと漂ってきた。
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