営み –Life-

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営み –Life-

 あなたの棘は甘く切ない。  私はこんな事を言われた事があり、その意味が漸く分かり掛けて来た。やっと二十歳の小娘なのに何を分かるのと、微笑み問い掛けられそうだが、私もやっと笑みで返せる。それでもの一つは分かると。  私が失明したのは、11歳の肌寒い春の事だった。視力は日増しに落ちていったが、まさかいきなり光を失うとは思ってもいなかった。母梓が張り詰めたお陰で、掛かり付けの病院から、地元横浜の国立病院で長い診察になった。  失明の可能性は高いが、急性のものかもしれないとで、入院をしたが、一向に光が戻る事は無かった。  主治医の最上先生は、角膜移植手術を勧めた。母梓は泣き崩れたが、昔と今では術式も費用も雲泥で、何も心配する事ないですよ、大凡1年後には順番も来て角膜移植手術も終わるでしょうの筈だった。  その間に父重富が骨髄腫の疑いが掛かり、検査入院後投薬治療になった。  私は父重富の事が好きでは無い。父は独立して内装業を営んでいた。今だ盛んか中年前半の男性には歯止めが掛からず、女性関係が絶えなかった。母梓との痴話喧嘩はいつもの事だった。  父重富にバチが当たったのかだったが、それは私にも降り掛かった。私にも重い貧血症状が有り、万が一の骨髄腫が疑われ、検査を重ねた。  骨髄種に遺伝は無いもの、白血球が基準値より確かに少なく、角膜移植手術をしても炎症の副反応が出る要素があるので、角膜移植は身体の状態が改善次第になった。  失明した私は、ガブリエル横浜支援学院の小等部に籍を移し、日常生活を送れる様に支援を受けた。指導は丁寧で、寧ろ失明前より学習能力は上がっていた。  生涯の友人もこのガブリエル横浜支援学院で得た。その後のボランティア活動で合流する、生まれつき盲も実力は既に抜きんでていたピアニスト阿波野恵麻。左足付随で変声期を経ても上と下の倍音が豊かな天性のボーカリスト澁谷潤。聾唖も色彩とデッサンが抜きん出ていたアーティスト高杉花蓮は取り分け仲が良かった。  私達凄く無いの励ましがあったから、成長期になっても何ら挫ける事は一つもなかった。そう、付いてるの一言はままあるが、私達の絆は出会うべくして出会ったものと深く思う。  アート仲間は多いが私のその一端になる。私は10歳から始めたピアノも、来たる契機を迎えていた。  横浜港の丘の上の大邸宅の中の、千速ピアノ教室を一筋に通っていた。何故この教室かは父重富の請負の関係で、お大尽と懇意にしては仕事を貰っていたから、娘さんの私にお出でなさいになった。  千速仁成先生は、お大尽の音楽大学卒業間もない次男で、金に飽かせた手厚いレッスンで私立の有名音楽大学を手前味噌に優秀な成績で卒業したとは言っていた。  ピアノを弾く才能は音符がどうしてもブロック音になりがちも、教える才能は幼い頃から音楽を聞きかじっていたのか、的確なニュアンスを伝えるのが上手かった。  そんな実情から、ある一定の伸び代を持つ生徒は伸びた。私は盲になったもののそちら側だった。千速先生の一般的な評判は、優秀な生徒が早くも3人輩出されたので、横浜でそこそこの若き名士になった。  そして千速先生の上っ面の情熱のレッスンが続く、14歳の夏に、私の初めては千早先生に奪われた。  連打の激しいプロコフィエフの「トッカータ」の指導中に、千速先生の汗が舞い、吐く息も次第に近くなり、腕はもっとしなやかにとガバと掴まれ、右肩に顎を乗せられた。  抱き被さった千速先生は、たった3秒で猛き者に代わり、発育中の胸を揉み解され、ピアノは不協和音を最後に奏で、硬いスタジオの床に男女が織り成した。そして雑なストロークと共に、私の当時の肉体の感性のままの呻きが、離れのピアノ教室に切なく響いた。  奪われた感想は、酷いと同時にこんな空虚のものかと、感情を伴わない涙が尽きる事は無かった。千速先生の荒い指示で、スタジオの外で待機しているまだうら若きメイドの桜子さんが呼ばれ、剥き出しになった私を労わり、植物性の香りの強い本宅の大浴室に連れて行かれた。  大浴室では閉口しかなかった。私は半分に満たされた外国人向けの浴槽に身を漬かわされ、やたら丁寧に穢れた身体をメイド桜子さん磨かれた。そして。 「麻美さんは実に幸せな方です。あの優秀なお坊ちゃん、いいえ千速仁成先生が初めての相手なんて、どこをどうしても叶わぬ事が今日叶ったのですよ。麻美さんには先々ただ幸せしかないかと思います。女性としての誉れです」  桜子さんのトーンは、磨く手と反して至って羨望に満ちていた。お大尽に仕えると言う事はただ傅く事かと思い知った。  送迎の車中。ハーブがカクテルされたソープの香りで、私の鼻奥に潜む鮮血は体良く隠された。私の表情は哀しみ諦めに満ちていた筈だが、千速先生は空気を一切読まず、こんな今日でもいつもと変わらず、知り得た偏ったセンスだけで音楽とはお仕着せる。  そして家に着き、母梓に引き渡され、やはり麻美さんは才能ありますので指導の甲斐があるで母が咽び泣いた。そして千早先生のベンツが去ると同時に、母梓が道路に崩れた落ちた音が聞こえた。  鮮血の香りは女性ならば敏感は当然だ。私はそんなの気にしないからと、初めてをぼかして励ました。  その初めての日は最悪そのものだ。母梓はその日終始して震え声も気丈に嗚咽を我慢していた。父重富は骨髄腫療養中の今、ただ寡黙で長らくの沈黙を守った。  そう、父重富は骨髄腫療養中という事で、生業の内装業は軽作業のみになり、千速のお大尽からやっと有り付ける仕事のみが、小暮家の糧だった。もはや何も逆らえぬ従属以外の何物でも無い。  だがこれで、私がレッスンを続ける限り、3食と自宅兼職場のローンも安泰だろう。正直心の何処かでは、この盲では誰とも知れぬ生涯の伴侶とは心から打ち解けず、生涯独身であろうとは諦めていた。それが家族の生活を安泰に導けるのなら、時間は掛かっても打算は出来る。  その後も千速先生との関係は少し続いた。若い果実の味を占めたか、私に敢えて難しい譜面を教え、熱血指導に心血注ぎ、果ては何の手応えも無い性交にもつれ込んだ。月一回、未成年相手への背徳ならば、いや他に目を付けた女生徒さんとのローテーションを考えると。男性の性欲としては妥当な回数だろう。  次第に薄気味悪いのが、メイド桜子さんの性交後の身支度だ。行為後打ち捨てられた私を、いつもの様に本宅の大浴室で清潔にしては、千速先生は素晴らしいとかく語る。普通の子ならば見事に擦り込まれるだろうが、私はその偏執的なトーンを知ってしまったので、メイド桜子さんに心なく相槌を打つだけだった。  ただそれも、私の中等部卒業でピアノ教室通いは納める事になった。千速先生はプロのピアニストに立派に育て上げる。母はこのまま盲ですし、身の丈にあった生活に根ざしたいで一方的に切り上げた。  邸宅内の長い玄関回廊を歩きながら、母梓はいつも以上の語尾で。 「お父さんもやっと自由戻って来たし、私もパートに出るから、あんな変態クソ野郎に2度と近づかない事ね、ここ絶対よ、麻美」  母梓は、丘の上の大邸宅の正門を、怒りそのままに3度蹴り上げて、穢れた関係は無事途切れた。  ただ音楽とはお別れは出来なかった。  荒々しいピアノレスンで極まった打鍵のシャープさは、自宅のピアノタッチの上限下限のあるローランドの電子ピアノで、折ある事のついの発散になった。  どうしても弾き始めた楽曲は、千速先生から何度も駄目出しを貰った、プロコフィエフの「トッカータ」。  暗譜で教わったピアノ曲がついフィードバックしては、あの当時逸っていた心に、急成長期の肉体が追いつき、千速ピアノ教室に通っていた頃よりは、実に3倍上手くなっている。それはグランドピアノか電子ピアノの差も無く、ここに観客にいたらきっと泣かせる事が出来る。  ヒット、ディケイ、リリース、シェイク。シェイクは違う、あいつ千速先生に知ったがりテクニックで、私を無作法に行かせようとする。  私はそうじゃない、女性はそうじゃない、愛情が一欠片でもあったら、気持ちを汲んでそんな雑な事は出来ないでしょう。私のピアノを憤怒そのままに弾き倒し、終楽章に向けてのその時、C#4の黒鍵盤が不器用に折れて音が飛んだ。ここで止めるわけには行かない、折れたC#4の黒鍵盤の代理和音を探り当て、尚も弾き倒した。そして最後の音符のリリースで、涙も心も何もかもが弾け、畳に倒れ嗚咽した。  何ら感傷も無い筈だった。穢れた初めてが、激しく心を襲い掛かった。私は盲で光を失っても、やはり心から誰かに愛されたい。誰かお願い、私を見つけて。
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