三.梅雨場所

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三.梅雨場所

「おや?体中に傷がついている。」 生傷が絶えない赤虎を 頻繁に見かけるようになった ある日の梅雨の候。 今日も早朝から雨粒が落ちる中、 老人はいつもの場所へ歩みを止めない。 風の日もやっかいだが、 今日のような天候は、 不自由な体の老人を更に痛めつける。 目的地が見えた時、 「あっ。」 思わず、老人は声をあげた。 数匹の猫の群れが 一つの標的に襲いかかっている。 その標的は体中赤い血を流しながら、 それでもそこから動こうとしない。 逃げようとしない。 雨粒と混じった血が アスファルトに小さな水たまりをつくる。 傷ついた体。 それでも牙をむいて威嚇する。 やられても、やられても 立ち上がって。 又、立ち上がって。 老人が出したゴミを守るように。 赤茶けた短毛の猫、 赤虎は一匹で立ち向かう。 「お前の手なんてかりねぇよ。」 そう老人に向かって言っているような気がした。 まぶしかった。 赤虎の立ち向かうその姿が。 老人はまた、昔の自分を思い出した。 丁稚奉公先の唯一の娯楽は、休憩時間店内で見る 大相撲のテレビ中継。 特に、小さい力士が、自分よりも大きな巨漢力士をなぎ倒すのが 気持ちよかった。 自分もそうなれるかと思い、 夜な夜な、四股(しこ)を踏む真似事をした。 自分も力士のように強く生きる……。 そんな矢先、兄弟子からその様子を見られ、 意味もなく殴り飛ばされた。 その時、やっと老人は気づいた。 どんなに、小さきものが大きなものを倒そうと思っても、 ムリだということ。 それは借金の(かた)で捨てられ二年の月日がたった 老人が十二歳の時。 もう無理だ。 戦うことに疲れたなら、 生きる(すべ)は一つしかない。 ある月夜の晩。 老人は、着の身着のまま、 店から逃げた。 足音も立てずに離れたつもりだった。 一瞬、腹をすかせたあのぶち猫の鳴き声が 遠くから聞こえた気がした。 老人はためらったが、そいつもおいて逃げた。 苦しいこと、つらいことから逃げたのではない。 自分自身から逃げたのだ。 月明かりだけが、そんな十二だった頃の老人をいつまでも照らしていた。
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