序章

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序章

 親指ほどの大きさの、小さな小さなガラスの瓶。コルクで栓をするタイプで、コルクに突き刺した金具に細い麻の紐を通し、彼女がいつも首から下げているものだ。 「(あつし)君、これ、あげる」  それを首から下げたまま、瓶の底を手のひらに置いて俺に見せつけながら彼女は言った。  普通なら取るに足りないような代物だけど、俺は彼女がそれをとても大事にしていたことを知っていた。だからそれを敢えて俺に譲るという彼女の気持ちに、神妙な思いで小瓶を見つめた。 「これ、中に入ってるのは?」  小瓶には八分まで液体が入っていた。月の光を受けているかのような淡い色、かと思えば光の角度によっては青空を吸っている水たまりのような色や、春の日の緑のような色が見え隠れする。それが同じ液体に溶け合っているようで、ただの水とは思えない。  かと言って、単純に香水であるとも思いがたい。彼女がそれらしい香りを漂わせていた覚えはない。 「これはね、水のお守りなの。飲んでも飲んでもなくならない、どこかで遭難しちゃったりした時、こんなに小さな水でも生命線になる。だから大事な人が安全で過ごせますように、っていうお守りなんだ」 「……そんな大事なもの、俺にやっちゃっていいの?」 「もちろん。だって敦君は大事な人だもの、あたしにとってはね」  俺が断らなかったからか、彼女は自分の首からそれを外し、俺の首へと移した。素直にお礼を言うと、彼女は満足そうに笑うのだった。  彼女にとっての「大事な人」がどういう意味なのかは、彼女にしかわからない。  けど、こんなやりとりを経てしまっては、俺はどうしても期待せずにはいられなかった。この時、俺は、彼女を想う心が単なる友情とは言えない類の――恋心なのだと、認めてしまったから。  その夜、ためしにコルクの栓を抜いて瓶を皿の上に倒してみた。彼女の言った通り、瓶からは湧き水のように心もとなく水が流れ続けた。  ――俺にとって、彼女は太陽そのものだった。16年間、生きてきて、その中で出会った他の誰よりも眩しくて失いたくない人だった。  そう、そんな身勝手な気持ちこそが――彼女を追い詰め、そして喪わせてしまったことを、この時の俺には知るよしもなかったんだ。
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