予兆

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 和銅元年(710)、ついに平城京遷都の詔が元明女帝から出された。  不比等は右大臣となり、女帝からの信任も篤い朝廷の支配者として為政に当たっていた。  むろん、高みに登れば登るほどに風当たりは強くなる。その風の最たる存在が現女帝の甥で娘婿に当たる長屋王であった。父は高市皇子、母は現女帝の姉、正妃は女帝の次女という、名実ともに皇系の申し子である。  英邁の誉れ高く、爽やかな容姿と堂々たる物腰で人々の崇敬を集めていた王は、反不比等派にとっては一縷の希望に等しかった。飛鳥浄御原令および大宝律令の編纂に深く関わった立役者、娘が皇太子候補の生母、妻の橘三千代も後宮の実力者とあっては不比等に隙はなく、外戚の台頭を疎む者たちは直に皇族の男子を仰ぐしかなかったのだ。  不比等は、常に長屋王の動向に意を払っていた。娘の一人を王の妻として送りこみもした。  その程度で懐柔できるような脆い人物でないことも、王が公人だけでなく私人としても己を疎む理由も、すべて承知の上で。  王の態度は表面的には軟化したが、依然として皇親の旗印のままだった。  表立った失策でもあれば即座に抹殺の方向に持ってもいけるのだが、そこまで暗愚の人物であれば苦労はしない。  ――さすがは父君の血を引いておられる子息、死地に追うにも一筋縄ではいかぬか。  不比等は正直な感想を抱いた。  だが、それはそれで良しと、不比等は微塵も焦らなかった。  長屋王はまだ若い。若さは多大な武器となるが、隙をも生むものだ。繰り返される周囲の煽動と血筋ゆえの倣岸が結びつけば、やがて軽挙へと走り出すであろう。そこが付け目だ。  五十の齢を数えるようになった不比等にしてみれば、待ちの態勢は実にたやすい。  じっくりと腰を据えた丞相は、天皇家と藤原氏の行く末を描き続けることに余念がなかった。  ※ ※ ※  萌芽の春。結実の春。  しかし華やかな桜を何度見遣ろうとも、不比等にとってはもっとも哀しい情景でしかない。陽光を浴びて輝く宮殿近くの樹を眺め、人知れず溜息を吐いてから踵を返した視界に、若々しい影が差した。 「右大臣殿」  長屋王の闊達な足取りに、不比等は丁重に礼を返す。 「殿下におかれましては、いずれに」 「なに、氷高皇女に前々から頼まれていた書物を献上しようと」 「ほう、皇女に」  何気ない相槌を打った。だが、長屋王の整った眉がわずかにひそんだのを見逃しはしなかった。  この王が、父系からも母系からも従妹姫に当たり、なおかつ義姉でもある佳人に以前から眷恋していることは承知している。その恋を阻む者としてこちらを怨みに思っていることも。 「何か、右大臣殿」 「いいえ、とんでもない。日々研鑽を深めておられる皇女にとって、殿下はまたとない師であられるのだろうと、感嘆いたしたまで」 「よく言う。そなたも皇女に漢書の手ほどきをしたと聞いているが」  棘のある声音。  不比等は心中で嘆息した。亡き持統女帝に秀才を見込まれ、たっての頼みで愛孫たちに漢詩を教えた時期がたしかにあった。ただ、少女だった皇女の真摯な眼差しに気づいた不比等は、理由をつけてすぐに任を辞したが。 「私の修めた学など、殿下に較べれば微々たるもの。聡明であられる皇女に教授を差し上げるなど、この乏しい才覚では到底敵わぬ術でございました」 「皇女は、そうは思っておられぬ。今でもそなたから習った漢詩を、折に触れて口になさるほどだ」  不比等にしてみれば氷高皇女は尊敬に値する女性ではあるが、あくまでそれだけである。慮外な心はいささかも抱いてはいない。こちらとていつまでも出会った時の若い青年ではないのだから、老いの姿に諦めてくれればと念じたほどだったのだ。  だが、皇女の恋は淡いものではなかったらしい。不比等に対する信頼と寵は、年々深まる一方だった。  恋する者の直感で仇を察知した長屋王の苦悩は、推し量るまでもなく。  深窓の麗人は同年代で同族の己には目もくれず、よりにもよって朝廷に根を下ろす外戚、二十も年上の臣下に焦がれているとあっては、歯噛みのひとつもしたくなろう。  ――西の風が一陣。  儚い桜の花弁が、ふたりの間をいくつも舞った。まるで仲裁するかのように。  不比等はふっと唇を緩め、虚空を仰ぐと、長屋王に向き直った。 「殿下、御身もご承知のように、皇女は漢詩をことさらお好みになっておられます。それゆえの回顧でございましょう――私は、これで」 「右大臣殿」  鞭を振るうような長屋王の鋭い声音が、不比等の足を止めた。  不比等の微笑を己への嘲りと取ったか、王の気品高い面立ちに勘気がわずかながら滲んでいる。若いな、と不比等は感慨深く思った。  かつての己にもこういうところがあったものだ。  他者が思い通りに動かぬ焦燥、苛立ち。自らを抑え、他者のそれを逆手に取れるほどに老成してしまったのは、西国での悲痛な経験ゆえ。  微塵も動じず、何でございましょうと不比等は物腰穏やかに応じる。 「そなた、志度とかいう地に、わざわざ堂宇を建てたと聞いているが」  しかりと、丞相は答えた。 「左様でございます。我が次子、房前と共に。それがいかがなさいましたか」 「かの地にそなたがいまだ心を残しているとの、根も葉もない噂も耳にしているが。鄙びた地にも、そなたが目を掛けるほどの風情があったと申すのか」  嬋娟の皇女の恩顧に目もくれず、最下層の女性に情を掛けるとは、やはりそなたは我ら皇族とは異なる――長屋王のいかにも稚い皮肉を、不比等は一笑に付した。 「かの地の民は皆、都人である余所者の私を半年余に渡り手あつく保護してくれたのです。彼らの誠意に、私なりに応えたまでのこと。もっとも帰途の際に会った難波津の役人は私を流浪の民扱いしまして、いくら名乗っても足蹴にせん勢いでしたな。今となっては笑い話に過ぎませぬが」  冷静な返答に侮蔑を読み取った長屋王は、今度こそ顔色を変えた。  人の情けに卑賤などない。第一、国家はそれらの名もなき民が基盤を為すからこそ存在しうるもの。地を踏みしめる足元を顧みずしてどうして良政の采配が(ふる)えよう。貴方に私の何が判る――不比等は心底から嗤った。  命を進んで捨てた若い海人の献身。海中に広がって行く禍々しい朱、蒼ざめたくちびるに消えた、最後の微笑。 『泣くなよ……偉い貴族のくせに……』  どうして泣かずにいられるものか、真木。  なぜ逝った、俺を置いて。  何度その微笑みに問いを繰り返したことだろう。  愛する者の生命がこの腕の中で果ててゆくその絶望が、その悲憤が、若さと血筋に守られたこの貴公子に判るはずがない。泣いて泣き尽くしてもなお、涙が枯れた眸はただひとつの愛しい面影を求めてさまよい続けているのだ、二十八年を経てさえ。  だが、魂を掻きむしるほどの呻吟を察したのは、亡き天武と親友の粟田真人、そして幼い我が子のみだった。 『おとうさま、とても悲しそう。志度のおともだちと、別れてしまったから?』  志度から帰還したとき、妻のうちで、誰ひとりとして不比等の悲しみに気付かなかったというのに。  次男の房前だけが、父の隠れた悲嘆を敏くも察した。  物思いから立ち返った不比等は、書斎に入ってきた息子のちいさな頭を撫でてやったものだ。 『そうだ。大切な大切な、友達がいたのだよ。でも彼は、死んでしまった』 『死んでしまったの? もう、会えないの?』 『そうだ』 『……おともだちが、かわいそう』  妻ゆずりの美しい瞳からぽろぽろと涙を落とした息子を、抱き締めた。泣けぬ己の代わりに我が子が泣いてくれているのだと思うと、胸が刺し抜かれるように痛んだ。 『房前。私はかの地の寺院に、堂を寄贈した。お前ももし、彼を哀れと思うなら、長じてからもその寺院のことを忘れるな。志度の地に建ち、海人たちを危険な海から護っている志度寺のことを……彼が命を賭けて玉を取ってきてくれたおかげで、帝の御意を得られた。今の私たちがあるのは、彼のおかげと言っても過言ではないのだから』 『はい、お父様』  息子は濡れた双眸で、しっかりと頷いたのだった。  幼い児のこと、この問答をじきに忘れるだろうと思っていたのに、わずか十を超えた時期に志度寺に堂を寄贈したいと言い出した房前。教師たちが舌を巻くほどに優秀な次男を、才知と情ともに兼ね備えた己の後継者としてみなしはじめたのはそれがきっかけだった。今では藤原四兄弟の事実上の筆頭といえば、房前と誰もが認めている。  ただ残念ながら、房前はこの長屋王と同じ、俊敏な才幹ゆえの性急さがある。そこが気がかりだった。王だけが年齢の罠に嵌まるならばともかく、我が子たちも同時に陥っては意味がない。 「――殿下、貴方はお若くていらっしゃる。そしてありあまる才能に恵まれておられる。その二つは何にも代えがたい宝、くれぐれも自重なさることですな」  もし己の代でこの危険な存在に綻びが生まれぬ場合は、せめて房前たちがもっと成長するまで待ってもらうしかない。彼らが若さに引き摺られることなく、自らを矯められるようになるまで。  万が一、争衡の果てにこの貴公子が生き残ろうとも、藤原氏が死滅することは決してない。蘇我氏の二の舞は踏まぬ。そのための布石は縁組によって、政治的配慮によっていくつも打ってある。  挑発にも動じない丞相に向かい、王は眉間を寄せて厳しく問うた。 「そも、貴様がこの朝廷に在り続ける目的は何なのだ、不比等」  呼称に乱れが出ていることを、本人が自覚している節はない。 「我が君が統べるこの日本の国が、平和に保たれること。それだけです」 「綺麗ごとで私を騙せると思うてか、貴様は利欲以外何も追い求めてはおらぬであろうが! 我が天皇家は貴様たちの傀儡になるほど甘くはないぞ、心しておけ」  不比等はぞっとするような微笑で報いた。 「では殿下は、私がいずれ皇統を操るようになると、そうお考えですか」 「何だと?」 「私は殿下のお訊ねに対し、そのような不遜な意を述べた覚えはありませぬ。しかしつじつまの合わぬ言葉裏を編み出されるからには、意識の裏でそうなることを予測しておいでに他ならぬ」  さしもの王も、とっさの返答に詰まった。  適切な反論を探せぬ悔しさを叩き付けるように、ひたすら不比等を睨み続ける。 「永遠に続くものなどこの世にひとつもありはしないのですよ、殿下。私の生命しかり、貴方様の生命しかり」 「……脅すつもりか」 「脅されたとお感じになるなら殿下、貴方様は私を恐れておいでということになりますな」 「返答になっておらぬわ!」 「ですから申し上げたでしょう、殿下が私を恐れているから、脅されたとお感じになるのだと。私はただ、世の(ことわり)を述べたまでのこと」  もはや不比等は慇懃な臣下ではなかった。  壬申の乱で地下に伏した藤原氏を一から再興し、数多の政敵を策略で葬り去り、国家随一の支配者として朝堂に君臨し続ける冷徹の貌を露にしていた。その酷薄極まりない鋭利な眼光に、はっと長屋王は怯えて立ちすくむ。血筋と才能こそ高けれど、不比等に真っ向から太刀打ちするには王はまだ経験が浅すぎた。 「私は、殿下の恐怖を写す鏡らしい。私に対するお言葉はすなわち、ご自身の恐怖へのお言葉なのです。そのことをしかとお忘れなきよう」  立ち尽くす若者に一瞥の慈悲も与えず、不比等は今度こそ踵を返した。  淡い色を刷いた花弁が、嘆くように行く手に舞い落ちる。いくつもいくつも、温かい風に乗って。  子供相手に、したたかにやりすぎた。さすがに大人気なかったか……不比等は苦笑して、はるか西の空に視線を注いだ。  ――真木。お前の真実は、俺の真実でもある。志度のあの至福の日々は、俺たちだけが知っていれば良いこと――そうだな。  お前の許に行くまで、どうか待っていてくれ。  この手はこれからも、数多の血に染まり続けるだろうけれど。  お前はそんな俺でもきっと許してくれると、救ってくれると、判っているから。  ――不比等――  名を呼ぶ懐かしい声を、限りない愛惜と共に脳裏に描いた。  永遠に若いあの面影が、桜色の春風の中で微笑んだ気がした。 -Fin-
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