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憂鬱な気持ちと、憂鬱な空。
相反するように光り輝く建物の光と街灯。
時間的には、町は眠っていても当然なのに、いまだ起き続けている。
機械的な光たちのせいで、美しいはずの空の星々が消えてしまっている。
「ふぅ…」
細々とした仕事を終わらせて、他人の仕事を終わらせて、自分の仕事も程ほどにして…。まぁ、残業とやらをこなして、帰路についた今。
「……」
足取りは重いようで、軽いようで。
頭は霞がかかったようで、はっきりしているようで。疲労で思考がろくに働いていない事だけは、ひしひしと伝わってくる。
視線を持ち上げる気にすらならない。足元を見ながら、この歳になってまで転んだりすることがないように、それだけ気を付けながら歩く。
今日は、なんとなく嫌な予感がしたので。少しでも気分を上げるために、お気に入りの服を着ているのだ。破れるのも、汚すのも、ホントに勘弁。ただでさえ、どん底もいいとこなのに、本当のホントに動く気力すら失いそうである。
―――ドッ―――
と、まぁ、足元を見ながら歩いていたのがよろしくなかったのか。急に明かりが消えて、何かにぶつかった。
「った…くない…」
勢い、痛い、と言いそうになったが、痛みはない。この人混みでぶつかるとすれば、人か電柱か。はたまた、その辺に停められていた車か自転車か。で、あれば、痛いで正解なのだが。痛みはいつまでも訪れない。
「……?」
代わりに、フワ―とした、柔らかい、毛―?羽毛―?ふわふわとしている。たとえるなら、綿菓子とか(触ったことはないが)雲とか、動物が持つ、冬毛特有のもこもこ感というか…。手で触れてもみるが、同じような感覚。(ちなみについ先ほどまでは、顔を埋めてた感じ)
「――ふぁ…」
その柔らかな感触に触れ、無意識にもふもふと、堪能していた。
―ら、上の方から視線を感じた。気のせいかと思いはしたが、嫌に圧が強い、大きい。無視せずにはいられない、圧―。
「わ……」
その先に、私の視線を上げれば、二つの瞳。金色の中に、真黒な、月のような、ブラックホールのような。うん、暗いからね、丸くなるんだっけ。けれどここが暗いのは、自分のせいだということに、彼(彼女?)は気づいていないのだろう。
「――――ね、こ???」
後ろには光があるのか、逆光で、その形はぼんやりと浮かんでいる。特徴的な三角の耳が、頭の上に二つ。その下には、大きな瞳。ピンと張った髭が、光に反射しているのか、キラキラと光っていた。その根元付近には、きっと可愛らしい鼻があるのだろう。
猫―と口に出してはみたものの、こんな大きなものは知らないし、知っていたとしても出会うことはないだろう。だって、こんな街中で。それこそ、こんなもの居たら、ネットニュースになりかねない。
ジロ―というわけでもないだろうけど、下から見上げる形で見ているので、なんだか不機嫌そうに見える。
「……」
これは、悪い夢だ。悪夢ではないけど、夢。または、疲れすぎて、何かを猫と勘違いしているのだ。
「―――」
だから、現実逃避もかねて、もふもふ再開。いつぶりの癒しだろうか。これが夢なら―夢だろうけど―覚めないでほしいと思うのは、悪い事ではないと思う。これはきっと、全人類が求めてやまない、癒しだ。もふもふは、世界救うのだ―
『に゛ァ゛』
「―!?」
うん。夢ではないようだ。頭上から不機嫌極まりない、とでもいうような声が降ってきた。もふもふ終了。ごめんなさい。
その声は、猫のような虎の唸り声のような、けれどやっぱり猫のような。低い、低い、地獄の底からの唸り声のような。かろうじて、猫と分かる鳴き声だったけれど。その音の低さだけ見れば、この世のものではない。
「―。。。」
その声に覚えた恐怖と、目の前の現実の現実味のなさに、身体が固まった。
それを見て、私を見て、何を思ったのか。
のそり―と、猫は動き出す。
おそらく座っていたのだろう。そうじゃないと、あんなに顔は埋められない。
身体を四つ足で、支える形に相成る。その手は、さっきは気づかなかったけど、私の頭の何倍もあるように見えた。この肉球につぶされてしまえば、一瞬にして、私はぺしゃんこだろうということは、分かりきっていた。ひしひしと、身に染みて、分かった。
「――!!」
しかし、その肉球ではなく、近づいてきたのは―ついさっきまで頭上のはるか上にあった、猫の、頭。
何と比べればいいのやら。ただただ大きいということしかわからなかった。恐怖と、恐怖と、恐怖で、身体は動かない。
蛇ににらまれた蛙というのは、こんな気持ちなのだろうか。ただひたすらに、食べられる、殺される、死んでしまう、という恐怖が頭を支配する。
まぁ、今は猫ににらまれた人間だけれど。
「―、…、、――、」
息をすることもままならない。私を見て、この猫は何を思うのか。ただ二つの目で、ねめつけてくる。
そのまま、どれだけ時間がたったのか。もしかしたら数分かもしれないし、数十分かもしれない。―実際はきっと、数秒。体感数時間。
『ん゛ぁ゛ー』
と、鳴いたような気がした。実際は、グぁ―とその口を開いた。きらりと、鋭い牙が目に入る。その牙は、鋭いけれど、すりつぶす方が得意なのではと思った。大きくて、鋭くて、恐ろしい。
(―食べられる)
そうとしか思わなかった。その恐怖だけが体を動かした。―目を閉じただけだが。そんなことをしたところで、目の前の存在は消えないし、恐怖は増すだけなのだが。けれど、固く閉じた目を開くことをよしとしない。
ぬちゃ―
しかし、痛みは一向に襲ってこない。(デジャヴ)代わりに、生ぬるい、濡れたような音。それと共に、水のような、よだれのような感触。
「―?」
ざら―と、全身やすり掛けされている気分。猫の舌で、ズルりと―舐められていた。
きっと、一回。たった一回。ペロリとされただけ。だが、やけに長く感じた。
「―うわ…」
頭から水をかけられたのかと思うぐらいに、濡れてしまっていた。よだれすごくないか…?やはり、食べる前の、味見とでもいうのだろうか。
『……』
しかし、それは私の早とちりだったようで。何か満足したのか、それとも食べる価値なしと思われたのか。ふ―と、その頭をもとの位置に戻し、のそりと、するりと、踵を返した。その際に、ぶおーと振られた尻尾の起こした風に、思わず目を閉じた。
――は、」
ん。ここは。私は、どこをどう歩いて、こんなところに居るのだ。可笑しい。全く、疲労も行き過ぎるとよくない。自分に驚く。
「うわ…」
しかも。知らぬ間に雨に降られたのか、服が、髪が、全身が、びしょ濡れである。雨の冷たさに気が付かないとか…どんだけだ。―お気に入りの服だったのに。
あとから気づいたのだが、路地の先の道は、雨に濡れていなかった。なんだ?嫌がらせか何かで水でもかぶせられたのか。―しかし、不思議なことに寒くはないのだから、よくわからない。え、熱湯かけられたの?
「…はぁ…かえろ……」
上を見上げれば、ほんの少し先に見覚えのある看板がある。あれを目印に進んでみよう。今度は、下じゃなくて、上を向いて。
残念なことに、私は明日も仕事なのだ。早く帰って、風呂に入って、寝なくては。
「仕事やめたー」
誰にも聞こえるはずのない独り言への返事は。
―――――――――――に゛ぁ゛。
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