チケットを売りたい男

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開店前の朝7時半、軽のワゴン車に乗った店長が市場から帰って来ると、掌から指の先を、ぐるりとゴム素材で覆われた手袋をはめて、そこに載せられた荷物をおろしに向う。 この手袋は、グリップ力がすごくいい。掌にゴムが付いているだけで、少しの力で重たい段ボール…今日で言えば玉ねぎの20kgとか、すーっと持ててしまう。 俺は力がある方だから、20kgを2箱とか持って、店の加工場まで行っちゃったりするけど、女性のパートさんにはこれがないときつい荷物もある。でも、これがあればある程度の物は運べるって、みんなスボンの後ろのポケットに入れて大事にしている。 無人島になにか一つ、持って行っていいとしたら、これが候補の一つに挙がるだろう。小さな棘ほど、手に刺さって気になるものはないし、小さな傷一つが大きな病気へのきっかけになるかもしれない。あとは無人島に持って行くとしたら…と考えてやめる。 そんなとこ、これから行く可能性は限りなく、ないに近い。奇跡とかと同じような可能性と同じで。 手袋の話に戻るけれど、大事にしているって、大げさな表現だと思うだろう。もし、後ろのポケットから落ちて、使おうとした時にないっていう。あの、後ろのポケットを探ってすか、すか、として「やだ…」って言いながら、白い軍手を取りに行く…あの、パートさんの落胆した表情を、たまに見る度に、こいつの偉大さに改めて気付く。 ホームセンターとかで、300円もしないで手に入るのに、俺らにこんなにも強大な力を与えてくれるこの手袋は素晴らしい。 「落ちましたよ」 その大事な、俺の手袋が落ちたと、声を掛けてくれる人がいる。よく落っことすから、拾ってくれたお客さんが後ろからこうして声を掛けてくれることはよくある。 「ありがとうございま…」 すーと語尾が伸びる。 「まるちゃん、どうしたの?久しぶりじゃない、まるちゃんだよね?」 高校時代の丸岡の顔を思い出して、頭の中でそれを写真みたいにして、今の顔の横に置いて、見比べながらも、人違いではない、と確証があったんだろう、すぐに名前が出てきた。 「コアラ…か、久しぶりだね。ここで働いてるの?」 俺の高校生時代のあだ名は、コアラ。なんでも、あの有名なお菓子のコアラに顔が似ているらしい。 朝の8時前、これから駅の方に行くのか、それとも朝帰りか。 ここは、俺の地元の個人経営のスーパーだから、知り合いに会うのも珍しくない。たまに、同級生が来て「昨日もコアラんとこの人参食べたわ」とろくでもない報告をしてくる。 俺の務める「はるきや」は、近くの大手スーパーには負けるけれど、小さい店内で必要なものは揃うと、買い物のしやすさで近所からの評判はいい。 社長で店長の主は、市場が開いている日は毎日行って、野菜を買い付けて来る。大手さんのように、大量に一箇所に仕入れて、それを各店舗に振り分けてってことはできないから、今だと…旬ではないなすとか、きゅうりは仕入れた値段でそのまま売値を付けると高い。 そこをカバーするために、市場で今日のうちに売り切りたいほうれん草とか、産地で採れすぎて余ってるキャベツとかが安く出ているのを見つけては、隙間、隙間で仕入れて来る。 そうして、全部まとめて売った時に、利益が出るように値段を付けると。 キャベツ88円 俺は手書きの値札をスタンドに挟んだ。チラシを打たない、個人経営の強みだ。そして、上も下も複雑じゃないから、この店の仕事は気が楽でいい…と思う。他で働いたことがないから、わからないんだけど。 「安いね、いや、俺、野菜の値段とかわかんないけど」 手袋を拾ってから、俺の仕事をずっと見ていた丸岡がまた後ろから声を掛ける。こいつは昔から…と言っても3年前位、だけど、人を嫌な気分にさせない男だ。 にこにこ〜っとしながら、いつも人に、ある紙片を差し出すと、つい買ってしまう、という特技を持つ…。 「六天(ろくて)、悪いんだけど…ここで会ったのもなにかの縁だからさ、チケット、買ってくれない?」 俺は名字も、コアラみたいで、昔からこの男の呼び方の使い分けに弱いというのを、すっかり忘れていた。 「まだやってんの?演劇」 「うん、大学の演劇サークルで」 鞄をガサガサと探ると、そこから1枚のチラシを出してくる。 「高校卒業してから、探した。また、俺の舞台観てもらいたくて。いつもチケット買って、観に来てくれて…本当に嬉しかったんだ。だからさ、また」 そうして、丸岡が駅から反対方向に去る背中を見送りながら、俺の手には紙片が一枚、握られていた。 朝帰りするような奴に、振り向いてもらえるはずなんてないのに。俺は高校1年生の彼の新人公演から、せっせとチケットを買っては舞台に足を運ぶ、ああやっていつも、誰にでもチケットを売る、恐ろしい奴なのに。 「コアラが観に来る日、楽しみにしてる」 どんな役、やってるんだろう。このチケットを出す日が楽しみでしょうがなかった。義理で芝居のチケットを買う、俺ではない。 「はるきや」には、定休日というものがあるんだ。
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