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うらぶれたバス停。春が近いと言えど、陽が落れば頬に感じるのは冷たい風だ。上着があったらよかったな。そんなことを考えながら、僕は煤けた色のベンチに腰かけた。
ベンチの向かい。道路を渡って、階段を下れば公園がある。ベンチに座っていては公園の全てを見ることはできないけれど、公園に立ち並ぶ木々の頭くらいは眺めることができる。
うらぶれたバス停にお似合いの寂れた公園だけど、桜並木だけはどうしても嫌いにはなれない。
君が、好きなものだったから。
小鳥がいたずらをして、ふわりふわりと花ごと落ちて来る薄紅色の花。小学生の僕たちは、地面に触れる前にいくつ掴めるか競争したりして。
手の平に山盛りになった花を空に投げれば、僕達の上には柔らかな春色のシャワーが降った。綺麗だと笑う君に、僕はよく見惚れた。
現実の冷えた風に頬を打たれて記憶の中から帰ってきた僕は、ため息交じりにベンチに背を預ける。ずるずると滑ってだらしない格好になったけれど、僕を見咎める人は誰もいない。
肝試しの小学生曰く、夕方の暗くなったあとでここを通ると、赤い靴を持った幽霊に追いかけられるらしい。
そんな噂があるせいかどうかは知らないけれど、夕闇に呑まれていく時間帯、寂しい公園の近くをわざわざ通ろうなんて思いつく人はいないだろう。
僕は公園に視線を戻す。
桜はまだ一つも咲いていない。この公園に春はまだ来ていない。
「ニャア」
鳴き声にはっとする。きょろきょろと辺りを見回せば、白と黒のぶち模様の猫が僕のすぐ足元にいた。
体の大きなその猫は、僕にすり寄るでもなく、僕から逃げるでもなく、ベンチに跳び乗った。僕との間に、丁度、人間一人分の距離を開けて座り込む。
ぶち模様の猫は、僕をじっと見ていた。
僕はこの猫を知っている。毛並みが良いから、首輪をしているから、きっとどこかの飼い猫だ。
そして、君が可愛がっていた猫だと、僕は知っている。
猫は、僕から視線を逸らさない。
おれは知っているぞと言いたげに。
おれは、お前の罪を知っているぞと、言いたげに。
猫は僕をじっと見ていた。
「……こんばんは」
思わずつぶやいた言葉に反応したのか、猫はようやく僕から視線を逸らした。
このぶち模様の大きな猫は、初めて会った時から君にだけは親しげだった。
初対面だというのに我が物顔で膝に乗り、戸惑いがちな小さな手がそっと丸い背をなでるのに喉を鳴らし。
そして、むすっとした僕の顔を見て、いかにも自慢げに目を細めるのだ。
あの日もそうだった。
どこからともなくやってきて、当たり前のように君の膝に乗った猫。君はあっという間に猫に夢中になって、置いてきぼりにされた僕がむすっとするところまで、何も変わらないいつもの日常。
けれどその日常は、その日で終わりを迎えた。
君が好きな花が全て開いて、ふわふわと風に枝を揺らす春の日の夕暮れのことだった。
君は、公園の階段から落ちた。僕のせいも同然だった。
ぼろぼろの赤い靴。
それを君がとても大事にしていたことを僕は知っていた。足が大きくなってきつくなっても、踵を潰して履くくらいに。
君が、簡単に新しい靴を買ってもらえる子じゃないことを僕は知っていた。
おもちゃなんて以ての外。服も、ノートも、鉛筆も。それどころか、食べ物すら満足に与えられない家の子だと知っていた。
けれど、僕はよく、その赤い靴を君からとり上げた。
ただ、こっちを見てほしかった。
何ひとつ不自由をしたことのない、普通で傲慢な子供のわがままだった。
当然、君はとりかえそうと手を伸ばした。僕がふざけているのだと思って、楽しそうに笑っていたのを覚えている。
けれど栄養不足で小さな君が、高く手を伸ばした「普通」の僕の手に届くはずもない。
その靴を持っている間、君はずっと僕を見ていた。猫でも桜でもなく、僕を。
馬鹿な僕は、そのためだけに君から靴を奪った。
君が階段から足を踏み外してしまうその瞬間まで。
夕方の空。ピンクから紺色のグラデーションを背景にして、驚きに目を丸くした君の顔。スローモーションで落ちていく。伸びた手には、履きつぶされた赤い靴。
その光景が、もうずっと、僕の頭の中に焼き付いている。
僕が咎められることはなかった。
何も見ていない大人たちは、子供がじゃれてふざけているうちに足を踏み外してしまったのだと判断した。
子供に、階段を落ちていく子供を助けられるわけがない。誰もが僕に非はないと判断したし、何なら可哀想にと僕を哀れんだ。
君が、僕のせいで落ちたのだとは言えなかった。
僕の仕業を見ていたのは、ぶち模様の猫だけだ。
僕と君と猫だけが、僕の罪を知っている。
あの日以来、君はずっと眠り続けている。
バス停のベンチが新しくなって、そしてまた古びてきたことも。
公園の桜の木が一本、病気になって伐られてしまったことも。
もともと大きかったぶち模様のあいつが、さらに太って大きくなったことも。
君に新しいお父さんが出来て、君が大きな病院に移ったことも。
君に妹が出来て、毎日綺麗な赤い靴で幼稚園に通っていることも。
君のお母さんが君のところにお見舞いに行く回数が減っていることも。
何一つ知らずに眠っている。
風が吹いて、公園の植物がざっと音を立て、そしてまた元の静寂に戻った。
くあ、と微かな音がして、無意識にそちらを見れば隣の猫が大きなあくびをしていた。
「そろそろ、帰る時間じゃないの。お前」
そう声をかけると、うるさいとばかりに猫は金色の目で僕を睨みつけた。けれど、僕の言葉は受け取ったらしく、猫は軽く毛づくろいをしてから軽やかにベンチを下りた。振り返った猫がもう一度僕を見る。
――もしも、人間のように口がきけたなら。お前の罪を公にしてやるのに。
もしかしたら、あの猫はいつもそんなことを思っているのかもしれない。
君が眠りについてから、あの日と同じ時間にバス停のベンチに座り、暗くなるまで公園を眺めているのが僕の日課になった。
ぶち模様の猫はどこからともなくやってきて、僕の隣、君がいた場所に座る。
言葉はないけれど、猫の視線は僕のことを責めているように思えた。
あるいは、こうして僕を見張っていれば、いつか君を一緒に連れて来るんじゃないかと期待しているようにも見えた。
けれど、そんな日はきっと来ない。
一度だけ、君を見舞いに行ったことがある。また桜が咲いて、あの公園に春が来た時期だった。
大人たちが部屋を出ていって、僕は君と二人きりになった。
嗅ぎ慣れない病院の匂いと、眠り続けている無言の君。どうにも落ち着かなくて、僕は開いていた窓の外を眺めていた。
病院の駐車場に植えられた桜が見事に咲いているのが見えたけれど、あの寂れた公園で君越しに見えた桜の方が何倍も綺麗だと思った。
吹き込むそよ風が春の日なたの匂いを持ってくる。
その時だ。君が目を覚ましたのは。
目を覚ましたばかりの、ぼーっとした視線が部屋の中をさまよう。
身動き一つ、それどころか呼吸一つままならないでいる僕を見つけると、それは春風よりも穏やかにふっと緩んだ。
「きれいだね……」
それだけ言って、君はまた眠りについた。それきり、君が目を覚ましたという話は聞かない。
誰にも言えなかった。昔も今も、おそらくこの先も、それを知っているのは僕だけだ。あのぶち模様の猫すら知らない、僕だけが知っている君の秘密だ。
いつか。またいつか、君は目を覚ますんじゃないだろうか。
君の好きな春の日に。君が好きな花が開く季節に。
卑怯な僕は、それを期待しているのだ。
いつか、目を覚ました君が、あの日の真実を誰かに話すのを。
僕の罪が、君によって確かに僕に刻まれる日を。
僕が、君にとっての許されざる者になる日を。
この古ぼけたベンチに腰かけて、ただ待っているのだ。
「――さいていだ」
呟いた声は、誰に届くこともなく夕闇に溶けて消えた。
自分が最低だと知っていながら僕は何もしない。できない。本当に質が悪いと思った。
ぶち模様の尻尾がゆらりと揺れて、低木の植え込みの陰に呑まれて消えて行く。
それを見送った僕は、立ち上がって道路を渡った。
ところどころにヒビの入ったコンクリートの階段の上。あの日、夕空に君の顔を見た場所に立って、公園を見下ろした。街頭の乏しい光に照らされて、古びた遊具が不気味に突っ立っていた。
けれど。
桜はまだ一つも咲いていない。この公園に春はまだ来ていない。
君はまだ、あの日の夕方から帰ってこない。
手の中にある履きつぶされた赤い靴を、僕は大切に握りしめた。
片方だけの小さな君の靴。あの日、階段から落ちた時からずっと、僕の手元にあるままの君の靴。
おそらく、僕はこれからもずっとここに来るだろう。あのぶち模様の猫もきっと、毎日ここに来るのだろう。
春が来るまで。君が来るまで。
僕たちはきっと待ち続ける。
あの春の日に、君と僕が足を踏み外したこの場所で。
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