序章 雪のような口づけ

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序章 雪のような口づけ

 もきゅっ  もきゅっ  きゅっきゅっ  足首を覆う雪の中をカロリーナは歩いていた。誰もが歩いていない真っ白な道を歩くのは少し大変だ。  日頃の運動不足と凍てつく寒さがカロリーナの足の動きを鈍らせる。鼻まで赤くしてそれでもカロリーナは歩き続ける。  もきゅっ  この新雪を踏む時の音が好きだった。なんとも例えようがない可愛らしい音がする。雪が奏でる音楽があるから、一人っきりでも全然、寂しくない。  空を見上げると灰色の雲から、はらはらと雪が舞っていた。額に、頬に、唇に冷たい結晶がキスをする。それが心地よくて、カロリーナは目を瞑った。  そして、その場にゆっくりと倒れこむ。雪が深く積もっていないせいか背中が痛い。もっと深いところで倒れればよかったと後悔した。  しかし、そんなに積もるのはもう少し先だ。そして、その頃にはカロリーナはもうこの国にはいない。  一週間後には遥か遠い地の国王の側室として嫁ぐことが決まっている。その地では雪は降らないらしい。代わりに灼熱の大地と砂の海があるとか。  雪が降らないなんて……  なんてつまらない所なの。  この国は年の半分は雪が降る。作物も取れず、凍てつく寒さに震える冬の時期は人々の顔を暗くした。  しかし、カロリーナは違った。  この雪が降る季節が好きだった。  シンと、静まり返る空気も。  肌を突き刺す寒さも。  何もかも白く染まる世界も。  美しいと感じていた。  まるで白い檻に閉じ込められたみたい……  いないものとされていたから、一人になるのは平気だ。むしろ、完全に孤立してしまった方が余計なものを見なくていい。  無慈悲な生に別れを告げ、あたたかな初恋を抱いて一人、閉じ籠ってしまえたら、それはそれで幸せなのかもしれない。  このまま寝ていたい。  雪に埋もれて、隠れてしまいたい。  誰にも見付からなければ嫁ぐ話もなくなる。  それは叶わぬことだけど。  せいぜい、熱を出して、熱が引かぬまま船に乗せられて、気がついた時には灼熱の大地だ。  優しい言葉など聞いたことのない父ならやりそうだなと、カロリーナは諦めの気持ちで息を吐く。  はぁ、とやや大きめに吐いた息は灰色の空へと上って消えた。  ザクッ  ザクザクザクッ 「カロリーナ様、ここにいらっしゃったのですね」  目を開けると白い景色が黒くなっている。黒い髪に漆黒の瞳、着てるコートまで真っ黒だ。 「アスワド……」  この場にいるはずのない人物にカロリーナの目が見開かれる。久しく呼んでいないその名を呼ぶと、黒い瞳が優しく揺らいだ。 「また雪を布団代わりにしていたのですね。風邪を引きますよ」  さぁと両手を伸ばされる。手袋まで黒くてそれが憎たらしくて、ふいっとカロリーナはそっぽを向いた。 「あなたは私の騎士ではなくなったでしょ? 妹の所に戻ったら」  そう言うとアスワドは肩をすくめる。 「これは困りました。どうすれば眠り姫は起きてくれるのでしょうか?」  聞いたことのある台詞にカロリーナが懐かしさと切なさが同時に込み上げきゅっと口をつぐんだ。  まだ、アスワドがカロリーナの専属騎士だった頃によくこんなやり取りをしていた。つい一ヶ月前のことだったのに、もう遠い記憶だ。そして、これが最後だ。  彼のいない遠くの地に行くのだから。  眠り姫を起こす合言葉は抱っこしてだった。でも、今日は最後だから…… 「キスして」  無理なことを言った。  アスワドは伸ばした手をビクリと小さく震わせた。黒い瞳が今度は戸惑いで揺れている。そして切なく眉が下がった。  考えこんでいる。  優しい彼のことだから、どうやって傷つけずに断ろうかと思っているんだろう。  カロリーナは少しだけ微笑んで「冗談よ」と言おうと口を開いた。 「……………………」  視界には黒い瞳。こんなに間近にその瞳を見たことがない。その瞳の中には自分の姿が鏡のように写っている。  開きかけた口を塞ぐ一瞬のキス。  熱も感情も伝えないそれにカロリーナは声を出せなかった。 「これでよろしいですか、眠り姫」  くすりと笑われるとカロリーナは赤くなって口をパクパクとさせる。それにまた笑われて抱き起こされた。そのまま横抱きにされる。 「ちょっ……一人で歩けるわよ?」  心臓のうるささを誤魔化すように可愛くない言葉が出た。それを気にするわけもなくアスワドは歩き出す。 「眠り姫は抱っこでお連れしなければ。そうでしょう?」  問いかけられカロリーナはますます膨れっ面になる。遊ばれている。完全に。それがちょっと腹立つ。  改めてアスワドの顔を見ると、端正な横顔があった。この横顔も楽しげに細められる黒い眼も好きだったな、と改めて思う。 「アスワド……」  なんでここにいるの?と、聞こうとしてやめた。お別れを言うためですとか言われたら泣いてしまうかもしれない。 「どうしましたか?」 「……なんでもない」 「そうですか」  アスワドはこちらの思いを分かってかそれ以上何も言わなかった。  ザクザクザクっ  アスワドはカロリーナの歩いてきた道をわざと踏むように歩く。  カロリーナの残した足跡はアスワドの足に踏まれていく。  土が混じり白い足跡は茶色く汚れていった。
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