夕暮れ

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夕暮れ

夕刻、男の前に姿を現したのは、小柄な従者だった。 「勇者様でなくて、申し訳ありません……」 扉を開けた男に、開口一番そう謝罪するロッソの目元には深い隈が刻まれている。 「お前……寝てないのか?」 「ええ、いえ、問題ありません」 すぐさま言い直すロッソに、男はほんの少し眉を寄せる。 「そうか……悪いな」 ろくに寝ないままの体で、この寒空の下、今までずっと仕事に追われていたのだろう。 ただ、その原因が自分達である以上、男にできるのは謝ることくらいだった。 「いえ……お気遣い感謝いたします」 くたびれた顔で儚げに微笑むロッソに案内されて、男はリンデルが待っているという、村の裏手の丘へと辿り着く。 「……よくこんなとこ知ってたな」 男は、この村で生活を始めてもう二十年にもなるが、こんな場所へ来たのは初めてだった。 「情報収集は、専門分野です……」 と、小高い丘の急勾配に息を軽く切らしながら答えた従者が、ぐらりと傾ぐ。 「おっと」 後ろを歩いていたカースが、片腕で従者を抱き止める。 「大丈夫か?」 「……っ、すみません、ちょっと目眩が……」 苦しげに目元を手で覆ったままに答える従者の様子から、ほんの一瞬の立ちくらみではなく、まだ今も目眩に襲われているのだと男が察する。 「このまま上まで登りゃいいんだろ?」 「え、ええ……。そうですね、私の事はお気になさらず……」 置いて行けと言い出しそうな従者を、男は片腕でひょいと抱きかかえた。 「なっ……にを……っ」 言葉の端が小さく萎む。まだ目眩が続いているのだろう。 「お前の寝不足は俺のせいだろ? お前こそ気にすんな」 そう告げると、カースはザクザクと雪を踏みしめながら丘を登ってゆく。 「す、すみません……」 小柄な従者は肩の上に乗るほどではなく、男の腕に腰掛けるようにして抱えられている。 「いいや。お前が小さくて助かったぜ」 そう笑うカースの、揺れる黒髪がロッソの鼻先をくすぐる。 男の首筋から、ふわりと花のような香りがして、ロッソはなんだか居ても立っても居られないような気分になる。 こんなところをもし勇者様に見られたら、一体どんなお顔をされるだろうか。 ともすれば、悋気を抱かせてしまうのでは無いだろうか……。 ロッソがそう思った時、丘の上から声がした。 「ロッソ!? 何があった!」 鋭い声とともに、リンデルが丘を駆け降りる。 「何もねぇよ。ちょっと目眩がしてるだけだ」 カースが答えると、張り詰めていた勇者の気配が和らいだ。 「そっか……、寝不足だったよね、ごめん……」 カース達のところまで来ると、リンデルはしょんぼりとロッソに謝った。 「いえ、私の健康管理の問題で……」とロッソが答える間に「俺が持つよ」と両手を差し出すリンデル。 「物じゃねぇんだぞ」とカースに嗜められて、リンデルは「そうだね、ごめん」と謝ってから「ロッソは、俺が抱くよ」と言い直した。 「……」 従者は俯いていて目元は隠れていたが、男には腕の中の小柄な従者の体温が上がるのが伝わった。 カースはじろりとリンデルを見る。リンデルは勇者の鎧の上から防寒のためかローブを羽織っていた。 「お前、この雪ん中甲冑着てて寒くねぇのかよ」 「うん、中に断熱材挟んでるから、意外とあったかいよ?」 にこりと答える青年に、男は軽くため息をつく。 「お前は寒くなくても……」 「あ、そっか。ロッソが寒いか」 その返事に、また男が丘を登り始める。もう頂上は見えている。 正直腕は痺れつつあったが、それは己の日頃の運動不足を呪うことして、黙って歩く。 「あの、もう降ろしていただければ……」 その声がまだ僅かに震えているのを感じて、男は苦笑する。 「もうちょっとだから、我慢しとけ」 やる事のなくなったリンデルが 「俺、上で食べ物広げとくよ。もう腹ペコで……。あ、先に食べててもいい?」 と首を傾げるので、男が頷いてやると、嬉しそうに丘へ駆け上がって行った。 その背を見送りながら、男が囁く。 「悪かったな、あいつに渡さなくて」 「!」 ピクリと小さく従者の肩が揺れる。 「いいえ……」 そう呟いた従者の体がまた熱くなるのを、男は気付かぬふりして歩いた。 頂上は、吹きっさらしではあったが、簡易的な机と椅子が備えられていた。 「二人とも、座って座って!」 ただの丸太の椅子ではあったが、早くから雪を払っておいたのか、座っても濡れそうには見えなかった。 「座れるか? 横になる方が良さそうなら……」 「おかげさまで、もう大丈夫です」 カースがロッソをそっと椅子に下ろすと、ロッソは深々と礼をしようとして、男に額を押さえられた。 「頭は下げなくていい。また目眩がしても困る」 「あ……、は、はい……」 その間も、リンデルは嬉しそうに机の上に広げた品々を紹介している。 「~って言ってたよ、だからこれは油で揚げてあるんだって、で、これはトリを串にさして焼いたやつ。カーシュ、どれ食べたい?」 男は、リンデルがさらりと昨日決めた名で呼んでくる事に感心しつつ、答える。 「俺は残ったもんでいい。お前達が好きなのを食え」 「えーっ、せっかくカーシュが好きそうなの色々選んできたのに……」 あからさまにガッカリと肩を落とす青年に、男は卓上をもう一度眺めた。 言われてみれば確かに、並ぶ品々はどれも男の好みに合う物ばかりだった。 そこに、焼き饅頭の姿は無い。 「それにしても、三人で食べるにしちゃ多過ぎないか?」 「ん? えへへ……、カーシュに食べてもらえると思ったら、ついつい……」 少し照れ臭そうに、それでも嬉しそうに答える青年に、男は目を細めつつも、ぞんざいに返した。 「お前が腹ペコだっただけだろ」 「あっ、飲み物買うの忘れてた!」 勇者がガタンと勢いよく立ち上がり、丸太の椅子が倒れる。 「ぁあ? もういいだろ……」 「よくないよっ、喉に詰まったら困るし。俺ちょっと買ってくるっ」 「勇者様っ! 私もお供し……っ」 駆け出す勇者を追おうと慌てて立ち上がった従者が、ぐらりと揺れて机の端に掴まる。 その背を男が支えて言う。 「……まあ、露店で買い物するくらい、一人でも大丈夫なんじゃねぇのか?」 「っ、ですが……」 従者が苦しげな表情で勇者の駆け去った方向を見つめている。 心配でたまらないといった横顔に、男はじわりと胸が痛んだ。 もしかしたら、こいつは昨夜もずっとこんな顔をして、宿の戸を見つめていたのではないのか。 大事な主人が、他の奴に抱かれていると知りながら……。 色白で線の細いロッソの顔の中では、くっきりと染まった隈は余計に目立つようだった。 「……先ほど、勇者様と屋台を回っていた時も、相当数の誘いを断ってきたんです……」 視線はそのままで、ぽつりぽつりと、従者が呟くように零す。 「誘い? お偉いさんが、一緒に祭りを過ごそうってか?」 「それもありましたが、ほとんどは女性です……」 「あ? なんだ、あいつモテんのか!?」 「勇者様という肩書きが、人を惹きつけるのです。……良くも……、悪くも……」 その暗い響きに、男は昨夜の会話を思い出す。 そう言えば、あいつはサラリと媚薬を盛られた事があると言っていた。 おそらく、それ以外の薬を盛られた事もあったのだろう。 「……それに、勇者様は……」 「ん?」 「女性を無下に出来ない方ですから……」 そこまで聞いて、男にもようやく、この従者がここまで心配する理由が分かった。 「分かった。俺が見てくる。お前はここで待ってろよ」 駆け出す男の背に「お願いします……」と祈るような声が届いた。
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