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翌朝
翌朝、ロッソは見覚えのない部屋で目覚めた。
警戒しつつ周囲を探れば、隣に黒髪の男が眠っている。
同じベッドに。同じ布団で。
慎重に昨夜の記憶を辿ると、空に登りゆく光を見上げたあたりで、それは途切れていた。
(私は、眠ってしまったのですか……)
昨夜、自分に体温を分け与えてくれた男を見る。
こうやって一緒に寝ていたと言うことは、彼はあのまま私を、ここまで抱いてきてくれたのだろう。
あの暗い夜の中を。片腕だけで。
ランプを持つ事はできたのだろうか。
雪に足を取られやしなかっただろうか。
そんな事が次々と浮かんで、ロッソは胸に湧き上がる感謝の気持ちを伝える事もできずに、ただ小さく震えた。
目の前で静かに眠る男は、この国の中ではほとんど見かけない浅黒い肌をしていた。
最初は何となく薄汚れた印象を受けた肌が、近くで見れば驚くほど滑らかで引き締まっていて、美しいと思った。
浅黒い肌へ緩やかにかかる黒髪は、自分の髪よりももっと細く、艶やかで男の繊細さを感じさせる。
睫毛はリンデルよりも長いようで、髪と同じ黒色が今は静かに伏せられている。
この瞼の下には、深くあたたかな森の色が隠れていることを、ロッソはもう知っていた。
この人に、触れたい。
そう思ってしまってから、ロッソは激しく動揺した。
違う! そうではない!
そんなはずがない!!
そう、昨夜、男の懐で、もし父が普通の優しい父であったなら、こんな感じだったのかも知れない。と。
そう思った。
その父性に惹かれた。
きっとそれだけだ。
混乱する頭を落ち着けようと、順に思い返す。
私はこの男を、ずっと妬ましいと思っていた。
勇者様の愛を、一心に受けるこの男を。
この男さえいなければ、勇者様は私のことを見てくれるのではないか。と、何度も思った。
けれどそれは土台無理な話だった。
この男がいなくては、そもそも勇者様は勇者様になることもなかった。
私の敬愛する、今の勇者様を生み出したのは、紛れもなくこの男だった。
現に一度、男の好意に甘え、勇者様の前から姿を隠してもらった時、勇者様は自身を見失った。
それは記憶の戻った今だとしても同じだろう。
いや、今では余計に酷い事にもなりかねない。
だからこの男は、勇者様のためにも、この国のためにも必要な人だと、大事に扱うべき相手だと、そう判断した。
それだけだ。
それだけのはずだった。
なのに、この男は会えばいつだって当然のように、私を労い、気遣う。
こんな……、人の心の痛みも分からず、主人の傷すら癒せない私を。
勇者様に仕えるためだけに生まれてきた、道具のような私を。
まるで自分と変わらぬひとりの人間のように、大事にしようとしてくれる……。
それは、勇者様から与えられる安らぎと、同じ形のものだった。
自身の指先が、震えているのに気付く。
男の寝顔は、手を伸ばすだけで十分届く距離にあった。
触れたいと、そう気付いてしまった心は、もはや偽れないほどに大きくなっていたのだと、ロッソはようやく理解する。
しかし、それが許される行為ではないことも、ロッソはよく理解していた。
そして、自分にとって一番大切な存在が勇者様であることも、また揺るぎようのない事実だった。
ロッソはようやく心を落ち着けると、男の顔から目を背けるように、彼の眠りを妨げないように、静かに体を起こす。
しかし、粗悪な木製のベッドは、それでも小さく軋んだ音を立てる。
そのほんの僅かな音で、男は目を覚ました。
「……ん……」
低く掠れた声。
ゆっくりと開かれる瞼。
その下から、森の色と、ロッソはあまり目にしたことのなかった青空が広がる。
どこまでも澄み渡るような広い空を思わせる水色に初めて見上げられ、ロッソは息をのむことすら出来なかった。
「ああ、起きたか……。添い寝で悪かったな。ベッドも布団も、これしかないんだ」
いつもよりも声が掠れているのは、寝起きだからだろうか。
低い声がところどころ掠れて、何故かとても艶めいて聞こえる。
ロッソ自身も高い声ではなかったが、童顔のせいか、あまり低い声は出せなかった。
「昨夜は、お世話になりました……」
ロッソが深く頭を下げる。
視界から空色が失われると、なぜか心にまで喪失感が押し寄せた。
「気にするな、と繰り返し言ったんだがな……」
男は苦笑してから、
「まあ、いつもあいつが世話になってる礼みたいなもんだ」
と続けた。
ロッソの胸が酷く痛む。
この男が自分に親切なのは、全て勇者様のためなのだと言われたようで。
けれど頭では、自分のことを棚に上げて、勝手に期待して、勝手に傷付いている自身を、なんて浅はかで身勝手なのだろうか。とも思う。
男は体を起こすと、時計を指して言った。
「時間は大丈夫か?」
言われて、ロッソは時計を見る。
まだ朝方ではあったが、夜明けはとうの昔に過ぎている。
勇者様はお目覚めだろうか。
体調はお変わりないだろうか。
途端に、今日のチェック項目がずらりと頭に並んだ。
「も、申し訳ありませんが、私はこれで」
慌てて立ち上がる従者に、カースはリボンを手渡す。
「これは私の……」
「寝辛いかと思って、勝手に解かせてもらった」
「いえ、ありがとうございます……」
ロッソは男に背を向けると、受け取ったリボンで手早く髪を束ねる。
この男が、昨夜私の髪に触れていたのかと思うと、顔が熱くなってしまいそうで、努めて冷静に、表情を引き締める。
靴を履くロッソが男へ上着の場所を尋ねようとして、やめる。
振り返れば既に、男の手でロッソへ上着が差し出されていた。
「色々とお世話になりました。このご恩は必ず……」
「お前はまた……。もう本当に、気にすんなって……」
玄関で、男がうんざりという風にため息をつく。
ロッソは、この男が自分を決して名前で呼ばないことに気付いていた。
けれど、それに不満はなかった。
……今日までは。
「もしよろしければ、私の事はロッソとお呼びください」
突然の申し出に、男が半眼にしていた目を丸くする。
鮮やかに輝く森と空の色に見つめられて、ロッソは『男の瞳がいかに美しいか』をよく語っている主人の姿を思い出すと、心の中で深く同意した。
「俺が……呼んでもいいのか?」
「はい。呼び捨てていただいて構いません」
「……そうか。ありがとう、ロッソ」
ほんの少し照れ臭そうに、それでもどこか嬉しそうに呼ばれて、ロッソの心臓が跳ねる。
それに気付かぬふりをして、ロッソは丁寧に頭を下げると男の家を後にした。
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