九、

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「薬は飲んだ? 飯は?」 「朝飯は食べて、先輩の家に行く途中で風邪薬は買って飲みました」 「じゃあ、あと三時間くらいしたら昼飯と薬だな。あんまりつらいなら、病院行くか?」 「いや、とりあえず様子見ます。今日一日薬飲んでだめなら、明日病院に行こうかと……」 「了解」  あくまでも事務的に貫太はそう言うと、「じゃあ寝ろ」とまた和を奥へと促す。 「看病とか、してくれるんですか」  和の背中を押しながら自分も奥の部屋へとついてくる貫太に思わずそう問えば、貫太はすうっと目を細める。 「なにを今更。そのためについてきたのに。そもそもひとり暮らしって知って、おまえひとりを置いていくわけないだろ」  至極当然のことのようにそう言われて、和はぐっと喉を締める。今日の自分は、随分と心が揺らぐ。それは貫太を目の前にしているからかもしれないし、昨日に泣かせてしまった負い目のある貫太が優しく接してくれるからかもしれない。自覚している以上に、今日貫太に会うことが不安だったのだ。それが、こんな形ではあるもののちゃんと向き合って会話ができている。その喜びのせいかもしれない。あるいは、熱のせいかもしれない。 「さっきも言ったけど、おまえに余裕がありそうなら話だってしたいし」  貫太がさらにそう言葉を続け、和は小さく絞り出すような声で「はい」と頷いた。  貫太に促されるがままにベッドに潜り込む。 「とりあえず、昼飯のタイミングで起こすから。とにかく寝ろよ」  そう言うと、貫太はごそごそと、ここへ来る途中に寄った薬局で買った熱さましのシートを取り出す。それを和の額に貼りつけてきた。強制的で強烈な冷たさが、今は心地よい。同時に、意識が朦朧としてくるのがわかる。瞼が重い。職場への電話は、昼食のときにでも間に合う。もしも熱が引いているようなら仕事を休む必要だってない。和は睡魔に逆らうことを諦めようとした。 「あ、」  と、貫太が唐突に、控えめな声を上げる。何事かと和が閉じかかっていた目を開けば、貫太はそんな和に気がつき、「あ、悪い」と小さく謝ってくる。 「いや……なんか、ありました?」  自分の声がぼんやりとしているのを自覚しながらも、和は貫太に問う。貫太は言い淀むように目を泳がせた。 「別に大したことじゃない」 「でも、気になるんで」 「いや……」 「先輩」  和がそれでも促せば、貫太は小さくため息を零した。そして、部屋の角に人差し指を向ける。 「あれって、ギター?」  確かにそこにはケースに入ったギターがあった。和がたまに、部屋でひとりでかき鳴らしているものだ。 「この前、演奏はしないって言ってたのになって思っただけ」 「専門じゃない、って意味です」  和が応えれば、貫太はどこか納得がいかない様子で眉を寄せる。 「やらないって言った」 「だって、やるって言ったら、先輩、絶対に聴かせろって言うじゃん」  そう言えば、貫太はぐっと言葉を呑む。 「まあ……言う、けど」 「はは。言うんじゃん」  和が笑えば、貫太も肩の力を抜き、小さく笑みを零したのがわかった。 「なあ、今度聴かせてよ」 「ほらあ。嫌ですよ」 「なんで」 「嫌だから」  貫太はむっと唇を尖らせる。和はそんな貫太を、目を細めて眺める。体は怠くて重いけれど、心は幸せで、軽かった。  そして同時に、今なら訊けるかもしれない、と思う。 「……ねえ、」  和はそっと、貫太に声をかける。 「ん?」  貫太の優しい声が、それに応えてくれる。 「ねえ、なんであのとき……」  そっと唾を呑む。 「あのときなんで、どうせって言ったの」  貫太が言葉を呑む気配がした。和は貫太の様子を伺おうとする。  が、それは叶わなかった。逆らいようのない睡魔が和を襲ったのだ。頭がぼんやりとしてくる。視界も焦点がうまく合わせられなくなり、ぼやけてくる。それどころか、瞼は否応なく落ちてくる。 「だって、」  耳の感覚だけが、最後まで残っていた。耳は、貫太の言葉を拾う。けれど貫太はなかなか次の言葉を発しなかった。そのうちにも、和の意識は遠のいていく。どうにかしてでも貫太の言葉を聞かなくては。そう思うのに、体の欲求に逆らうのは難しい。 「……て、どうせ……なる……ろ」  聞き取れた言葉はあまりにも断片的だった。和はそれを聞き直すこともできず、そのまま意識を手放した。
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