一、

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「ちょっと笑ってたよな」 「にやにやしてた」  次々に飛ばされる言葉たちに、紺は「笑ってない」、「にやにやなんてしてない」とやっぱりぼそぼそとした口調で言い返している。そんな紺と周囲との応酬を眺め、貫太は「なるほど」と思った。自分はどうやら、思っているほど紺のことを知らないらしい、と。  貫太はずっと、紺は果たして野球が好きなのだろうかと疑問に思ってきた。そしてその答えは得られずにいた。むしろ、どちらかと言うならば、興味がないのではないかとすら思ってきた。けれど今のやりとりを見る限り、紺はちゃんと野球を好きらしいのだ。その事実に、なんだかほっとしてしまう。  と、ふいに、紺の目が貫太の方へと向いた。目と目が合う。すると、紺は不思議そうに首を傾げた。 「先輩?」  どうかしたのか、とでも言うように紺の目が細められたのがわかった。そんな紺の顔を見て、貫太ははっと我に返る。どうやら随分と考え込んでしまっていたらしい。そしてそんな思考が貫太の顔にも滲み出ていたのだろう。それを自覚して、貫太は思わず逃げるように視線を逸らす。  逸らして、今度はその目を紺の正面に立つ顧問に向けた。顧問は相も変わらず呆れたように眉尻を下げ、笑いながら紺を見つめている。  そしてはたと、貫太は思い出す。先ほど彼はなんと紺に声をかけていただろうか、と。  ――このままだと部長にはさせられないぞ  そう。彼は確かにそう言っていたはずだ。半分は冗談を言うような軽口だった。でももう半分は本気でそう言っていたように思う。だからこそ、貫太の耳も思わずその声を拾ってしまったのだから。  そんなことを思い出して、貫太は急激に頭の中が冷めていくのを感じた。紺は一体なにをして、そんなことを顧問に言わせたのだろうか、と。  と、そのとき、紺を取り巻く集団のうちのひとりが貫太の視線に気がついたらしい、「あ」と貫太に言葉を投げてきた。 「志田先輩、聞いてくださいよ。こいつ、夏の課題は手つかずだとか言ってるんですよ。夏休み終わるまであと何日だと思ってるんですかね」  そんな言葉に続き、周囲からは「あほじゃん」だとか「水澄らしい」だとか、そんな笑い交じりの野次が飛ぶ。そんな中、貫太が半ば反射的に紺に視線を投げれば、紺は「げ」とでも声が聞こえてきそうな表情で、貫太から顔を逸らした。 (俺は確かに、水澄のことをあまりよくわかってなかったかもしれない)  貫太はそんなことを思う。思いながら、「でも」と心の中で小さく首を横に振る。それでも、わかる部分も確かにある。 (こいつは面倒くさがりで、基本的になんでも適当で……) 「水澄」  紺の名を呼ぶ。紺は渋々といった様子で貫太の方へと向き直った。紺の周囲は相変わらずやんややんやと盛り上がっている。 (そう)  貫太は胸の内でひとつ頷く。 (そう。こいつがちゃんと計画的に宿題をやるタイプじゃないことは、間違いない) 「課題やってないの、本当か?」  その問いは、自分で思っていたよりも随分と低い声となって口から零れた。紺がぎくりと体を強張らせたのが見ていてわかる。そんな紺の緊張につられてか、それとも貫太のその低い声にか、先ほどまで盛り上がっていたはずの他の部員までもが口を噤んだ。しん、と部屋が静まり返る。  そんな重たい沈黙の中、紺は小さく、そしてぎこちなく、頷いて貫太の問いに応えた。 「……はい」  ひくり、と誰かが小さく震えたのが視界の端にわかった。紺もぎょっとしたように、いつもは細目がちな目を見開いてこちらを見ている。顧問ですら、どこか恐ろしいものを見るように顔を強張らせてこちらを見ていた。  彼らがそんな反応をする理由は貫太にもわかっている。 「ふふ」  貫太が突然笑い出したからだ。そしておそらく、その笑みに負の感情を感じ取ったからだろう。貫太の怒りを。 「水澄、」  また、紺を呼ぶ。 「はい」  紺の返事は小さい。 「明日は部活が休みだったな?」 「はい」 「俺は、推薦とはいえ勉強はしなくちゃいけない」 「……はい」  貫太はにこりと紺に笑いかけた。 「俺と一緒に、勉強、するか」  紺は顔を歪ませる。貫太は一層笑みを深める。 「一緒に勉強、するよな?」  紺は周囲に助けを求めるように視線を泳がせる。けれど、誰もその無言の訴えには応えようとしない。 「水澄?」  紺は少しの間、それでも負けじと視線を泳がせていたものの、最終的には諦めたように貫太の誘いに首を縦に振った。振るしかなかった。
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