邂逅

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 前の会社でも欝になるほど働き詰めた経験などなかった。それなりのヤル気を持って入社したものの、ソツなく仕事をこなしても評価されるわけではなく、育休中の同僚の仕事まで肩代わりしたのに感謝もされず昇給もなく、アホらしくなって辞めた。  だから長時間労働や上司の叱責がどういう苦しさを伴うのか、実感はまったくない。 「勇太君、過労死って、あんまりソソられないテーマなんだけど。そんなブラックな企業に勤め続けるなんてアホじゃない、って思っちゃう。自殺なんて考える前にさっさと辞めればいいじゃない。同情できないから、共感できない」 「まあ、そう言うなよ。作家ってのはさ、実体験ではなく想像力で執筆する。でなきゃ自分で死んでみないことには死を描けないだろ? それじゃあ困るわけ」  過労死する女子社員の心情をリアルに描いて世に問う、というのが勇太の戦略だ。 「それってドキュメンタリーの世界でしょう? それに、人が亡くなった事件を取り上げて稼ぐ、って感心できないわ」 「稼ぐために書くわけじゃない。過労死問題に世間の注目を集め、そういう悲惨な事件が二度と起きないよう世論を誘導する。他人の手によるドキュメンタリーでは書けない当人の心情を細やかに書く。それが小説化の狙いだ。結果は後からついて来る。そりゃ、稼いでもらわなきゃうちとしても困るけれどね」  繭子は結局、勇太が集めた大量の参考文献を読ませられることになった。 「これは例の自殺した女子社員の母親の手記。彼女が残したツイートや日記とかも記載されているから、参考に読んでみて」  テーブルの上に置かれた黒い装丁の本がその手記だ。中表紙にはご丁寧に自殺した女性の生前の写真が掲載されている。瞳の大きい、今にも本の中から語りかけて来そうなポートレート。きっと葬式写真にも使われたのだろう、と納得させられる美人顔だ。  その一枚を目にして、繭子は本を開くのをためらった。自殺に追い込まれた彼女の想いが詰まったこの手記を読んでしまったら、その亡霊にでも感化され、小説なる作り物を描けなくなるかもしれない。  しかし、リアルな感情を描き出すためには、一女性の最後を綴るノンフィクションを読んでみないわけにはいかなかった。  繭子は恐る恐る黒い本を手にした。禁断の書を紐解くような悪い予感に一瞬躊躇したが、ブランクな脳味噌を寝かせておくよりはマシな時間の使い方であろう、と思い直してページをめくった。  腑抜けのスポンジになれ、と繭子は自分に言い聞かせる。  彼女に成り切ったつもりで、何が起きて、何を考え何を思ったかを、なぜ死ぬことしか考えられなくなるほど追い詰められたのかを、先ずは知らなくてはいけない。  もしかしたら、あの時、意図せずして魂が繋がってしまったのかもしれない・・。
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