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 シェーンは、いくつかの言語でやさしく語りかけたが、彼女は目を吊り上げ、歯をむき出しにして威嚇した。声が聞こえていないのかと思い、顔を近づけると、爪をたてて襲ってきた。腕力も殺傷能力もなかったが、強い興奮状態にあったので、鎮静剤を注入してしばらくのあいだ眠らせた。 「カマラと呼ぶことにしよう」  その勇猛果敢な姿に、シェーンはどこか楽しげな様子だった。 「カマラ? どういう由来ですか?」 「桃色のハス、だったかな」  わたしはシェーンの腕を取り、彼女に爪でひっかかれた箇所を消毒した。物資のない宇宙では、ささいな傷でも命取りになりなねない。すばやい処置が必要だった。 「二十世紀初頭にインドで発見された狼少女の名前さ」  すぐにデータベースから知識を得ていたが、わたしはほうと興味深い表情をしてみせた。  シェーンは得意げに微笑む。 「布教先の村人から、ジャングルに恐ろしい化け物がいるから退治してほしいと、宣教師たちが頼まれたそうだ。調査を行うと、彼らはジャングルで狼と暮らしている二人の幼女を発見した。姉妹と思われる二人の幼女は保護され、姉はカマラ、妹はアマラと名づけられた」 「実話ですか?」 「当時は実話として喧伝されたけどね。売名ための詐欺だよ。栄養学的に生物学的にも、狼に人間の子供を育てられるわけがない。人間に狼の母乳を消化することはできないし、狼の移動速度に幼児がついていけいるわけもない。先天性の障害を持った子供を利用した捏造さ」  シェーンの本業は医者だった。脳外科医で脳科学者、社会心理学者でもあった。地球にいたころは、若くしてその道の権威であり、地位も名声も経済力も、すべてを手にしていた。 「なるほど。では、そのカマラの処遇についてですが、セオドア博士、メノウ博士と話し合いますか?」  その二人も分野こそ違うが、シェーンと同じような経歴の持ち主だった。現在、光速推進のエネルギー充填期間のため、数年の冷凍睡眠状態にある。 「異常事態だからね、ぼく一人で対処するわけにもいかないだろう」 「一度、覚醒させるとふたたび冷凍睡眠の設定を作り直すのには、時間と生命維持リスクがともないます。航海の計画に支障をきたしかねません」 「それもわかるが、ぼくも少し混乱している」 「楽しんでいるようにみえますが」 「そうか?」  シェーンはにやりと笑った。 「いや、じつはその通りだウォーカス。きみには悪いが退屈すぎる航海にあきあきしていたところだ」  わたしは事前にシェーンの性格や過去の言動、論文、各種心理試験などのすべてインプットし、熟知している。この反応は、当然予測できた。  だから、辟易として困った表情をつくった。そのほうが、シェーンの気分が良くなるからだ。そして気分良くなったシェーンは、二人の博士を覚醒させようとはせずに、一人でこの状況を打破しようと考えるだろう。
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