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4-4. 破体書
ゆらりと視界が廻る。と同時に、水の中に閉じ込められるような、奇妙な浮遊感。
手足が自由に動かせない ―― なのに雪麗は、目の前で己の手がすっと筆の穂先を返して、紙の上に柔らかく重い線を引いていくのを見ていた。
蔵鋒、と呼ばれる技法である。
力強く、素朴でありながら気品のある古代の篆書で、ゆっくりと詩の題名が書かれていく。
『写黄鳳一年四季到篇上』
黄鳳国の四季を紙の上に写す ―― 古代の詩だ。五言絶句、わずか20字で四季の情景が豊かに描かれている。
作者名は失せてしまっているが、贈答品の掛け軸などに人気の詩だった、と雪麗は思い出した。
さすがは美術商の娘といったところか。美雀の選択は、まずまずである。
最初の一句は春 ―― 重く引きずるようだった筆が、一転、軽やかになる。
穂先だけを使って鋭く引かれた線は、煙のように融通無碍でありながら、疾走する風のように勢いがある。狂草だ。
(無邪気に遊ぶ子どものようです)
雪麗は感歎した。
書はまずは意識的になされねば始まらないものであるから、観る者に無邪気を感じさせることは、実に難しい。
特にこの、狂草という態定まらぬ書体には、おどけたふうを装いながらも複雑な心境が託されているのが常である。
なので、観賞する際にはまず 『そこに、なにが隠されているか』 と探るように眺めるものだが…… 美雀の狂草は、そうした観賞者の姿勢を笑い飛ばすかのようだ。
ただただ、楽しげである。
それは、この詩の第一句と実によく合っていた。
『春風満四方』
―― 春の風は四方に満ち、冬の寒気を払い、温気を運ぶ ――
次の句は、始まりの 『夏』 の部分から、春の句とは打って変わった力強さに溢れていた。
ぐいっと筆を置いては、ねじ込むように描いていく。技法は題名で使われた篆書と似ているが、穏やかな篆書とは異なり、目を張るような激しさがある。
灼けるような強い夏の日差しが、文字から放たれて周囲を燃やしつくすかのようだ。
『夏光開蕣蓉』
―― 夏の光は朝顔や芙蓉を花ひらかせ ――
『秋月皓窓外』
―― 秋の月は窓の外を白く清らかな光で照らす ――
秋の句は、苛烈な夏の行書とはまた全く違う様相を呈した、優しくもどこか真意の知れない感のある草書で綴られた。
どうやら美雀は、春夏秋冬をそれぞれにふさわしい書体であらわす、破体書をなすつもりであるらしい。
詩句に合った書体を一篇に集わせる ―― それは、極めて安直な発想のように見えるがゆえに、難しいものだった。
間違うと、書としてのまとまりのない、単なる技術自慢の浅薄なものに見えてしまうからだ。
書を観る者に違和感を持たせず、ただ四季の豊かな自然に心遊ばせるようにするためには、確かな技術に加えて卓越したセンスが必要であった。
詩の最後は、冬。
これまで、篆書、狂草、行書、草書ときた。これだけ書体を変えながら、いまなお破綻をきたしていないのは、ひとえに美雀の手腕によるものであるが…… それが、一篇の書として体をなすかは、最後で決まってしまう。
(この順であれば、楷書でしょうが…… うまくいくのでしょうか)
楷書は形が整っており読みやすい字体だが、そのぶん、草書や行書よりも硬く、意を伝えにくいとされている。
春・夏・秋と、草書や行書を用いて意を伝えたあとに、無表情な楷書などもってきては、全体のバランスが崩れてしまうのではないか……
雪麗が危惧するのは、そこである。
かたずをのむようにして見守る雪麗の前で、ゆるやかに筆が動いた。
(あ…… きれいです……)
最初の文字 『冬』 は、雪麗の予想から少しずれ、楷書でも綿にくるむような柔らかさを感じさせるものだった。
秋の詩句で用いた、優しい草書とのつながりが意識されているようだ。
そういえば、春・夏・秋の各句の冒頭と末尾は ―― いや、句を構成している一語一語が、同じ書体でもそれぞれ微妙に違う。きちんと計算されているのである。
それでいて、計算を感じさせないほどに、自由で自然で楽しげな書 ――
ぞくぞくと、心臓が撫で上げられるような心持ちがした。
雪麗に乗り移っているのは、恨みを晴らしたいだけの女官などではない。
書の道ひとすじに生きた、類い稀なる芸術家なのだ。
『冬雪秀孤松』
―― 冬は雪で真白に覆われる世界に、ただ松のみが、永遠の緑を誇るように立っている ――
細くシャープな線で書かれた端正で静謐な 『雪』 は、まさにしんしんと降る雪を思わせる。そこから 『秀』 『孤』 と線は次第に太く力強くなっていく。
同じ楷書であるのに、たった五言で字の表情は静から動へと移るのだ。しかも、全体として破綻することなく……
最後の 『松』 は、最初の柔らかで優しい 『冬』 とは全く異なる、雄渾の書となっていた。
起筆は重く、真っ直ぐに引かれた太い線からは、降りしきる雪の中でも凛と立つ永遠の緑が視えるようである。
楷書ではあるが、篆書のような古雅の趣があり、題字と違和感なくつながる。
1つの宇宙が、そこにはあった。
1篇の詩の中で、白と黒は渾然一体となり、壮大な音楽を奏でていた。
単なる四季の情景ではない。
それをこの国にもたらす、大いなるものの息吹きに包まれているかのような、あるいは、時空を越えた場所に身を置くような……
観る者を一瞬にして、異界に拐ってしまう書であった。
(…… ほんもの)
雪麗は圧倒され、心の眼をそっと閉じた。
―― 観ていられない。
己の持っていないものを鮮やかに見せつけられたとき、妬ましさを感じてしまう程度には……
まだ、人生を諦めていなかったのだと、思い知ってしまった。
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