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母と卵と私の春
大きな卵を一つ手にとり、平らな机にコン。と叩きつける。
小さなひび割れにくっと指を押し込むと、きれいな形で穴が空いた。隙間から輝くような白身が溢れ落ち、重みのある黄身が指のすぐそばを通り抜けていく。
蛍光灯が照らす白い皿の上、こぼれ落ちた一つの卵。
それを見ると私はいつも『誕生』という言葉を思い出すのだ。
卵料理は世界各国に存在するという。その数は数千、数万、数十万、数百億以上。
焼いて、揚げて、湯がいて、生で。
世界の人の胃を満たして、世界の人々を幸せにする。
それが卵料理だ。
……それを教えてくれたのは、私の母である。
「すっかり卵を割るのも上手になったじゃない?」
そんな母は、今日も台所の椅子に座って、真っ白な煙草をふかしながら笑う。
その目は楽しそうに私の手元を見つめていた。
「希美。あんたさ、昔は卵が怖いって言って、冷蔵庫開けるたびに泣いてたの覚えてる?」
「話を盛らないでよ。泣いたのは一回だけ。それにもう私は25歳だし、料理くらいは当たり前にできるんです」
口を尖らせながら私はコンロに火を付ける。春とはいえ、家の奥にあるキッチンはまだ冷える。
そんな冷たい空気に、ぽっと暖かい空気が流れた。
そうだったっけ。と母はうそぶきながら白い輪っかを宙に飛ばす。
母はいつも大げさなのだ。1つのことも10や100に引き伸ばす癖がある。
「なぁんで卵なんて怖がるかねえ」
フライパンに踊るほどの油を落として、一呼吸。さらにそこに冷蔵庫から出したての冷たいバターを一かけら。
熱されたフライパンの上、割った卵を慎重に滑らせると透明だった白身が一気に白に染まった。かと思えば、段々と周囲から焦げていく。
揺らして、ゆっくりと。たっぷりの油に泳がせるように。
フライパンを揺り動かして、熱が均一に伝わるように……目玉焼き作りは祈りの儀式に似ている。うまく焼けますように、黄身が破けませんように……美味しくできますように。
幼い春の日、私は人生ではじめて目玉焼きの作り方を母に学んだ。
「そりゃあ、お母さんのせいだよ。だってお母さんさ、卵に落書きしたじゃない。目と口を書いてさ。早くこれをやっつけて食べなきゃ、化け物になるぞ~なんてさ。小学生にいったら本気にするに決まってる」
「食育ってやつよ。あんたも、化け物をやっつける。なんて鼻水垂らして卵、握りつぶしてさ。じゃりじゃりだったなあ。あの目玉焼き」
「お母さん、それはもう耳タコです」
目玉焼きは、縁がこんがりと焼けたら焼き上がりだ。
まだ黄身はとろりと艶があり、生に近いくらいがちょうどいい。そうやって出来上がった目玉焼きには、白い皿に載せてケチャップとたっぷりの胡椒を添えてやる。
「次は……」
私は続いて卵を三つ、かしゅりと割って、柔らかく混ぜる。
「希美。蜂蜜ちょっとだけだよ。それと」
「だし醤油。あじのもとと……マヨネーズ」
「そっちは、たっぷりで」
「あとは、少しの片栗粉」
目玉焼きを焼き終えたフライパンを軽く拭って、続いて落とすのはごま油。
かんかんに熱して、綺麗に混ざった卵液を落とす。薄く広げると、黄色い卵液がボコボコとマグマのように騒ぎ出す。
膨らんでくる所を、潰す、混ぜる。懸命に。
「忙しいのよねえ、卵焼きって」
「ちょっと黙ってて」
箸の隅っこを当てて、くっと息を吸い込む。
目を見開いて、一気に手を動かせば卵がくるり。とフライパンの中で折り畳まれた
急いでもう一回卵液を流し込む。畳まれた卵の下にもゆっくりと滑り込ませ、焼けていく音にじっと耳を傾ける。
黄色く輝くそれを丁寧に巻いていく。
「畳めば畳むほど、いいのよ。面倒だけど」
母は煙草を吸うのも忘れ、私の手の中を見つめていた。
「そうだね」
畳めば畳むほど、それは黄色のきれいな塊になっていく。
ただし、丸いフライパンなので形はまるでオムレツ。これが、我が家風だ。
柔らかくてトロトロ。片栗粉入りなので、つるん。と飲み込めてしまう。喉に詰めるからやめなさい、なんて母には何度も叱られたけれど。
「四角いフライパンにしたらさ、お店っぽく作れるのに。お母さん絶対四角いフライパンを買ってくれなかった」
「丸いフライパンのほうがいいのよ。だって四角いフライパンだと、端っこの尖った切れ端が作れないじゃない。卵焼きは、尖った端っこが美味しいんだから」
母は大切なことを告げるように、言った。
とがった爪には真っ赤なネイルに、金髪に近い茶髪。母はいくつになっても、自分なりの美意識を崩さない人だった。
「お母さん、本当に卵料理好きだよね」
卵三つ分のふわふわ卵焼き。
たっぷりの油で揚げるように仕上げた目玉焼き。
2つを台所の机に置いて、私はしみじみ呟いた。
真っ白な殻の内側に、こんなにも美しい色が閉じ込められている。
外からは見えない。聞こえない。
それは命だ……と、小学生の私に向かって彼女は言った。
「あんたが卵食べたことないって言うんだもん。お母さんも必死だったのよ。なんたって子育てなんて人生ではじめてだったし」
「まして、小学生の子どもから育てるなんてはじめて?」
私は思わず笑ってしまう。
私と母は小学生のときに出会った。
私はまるで養鶏場から出荷される卵のように、生まれ落ちた家から放り出されてあちこちの家を旅したのである。
しかし卵は卵でも、欠陥品だ。どこに行っても私は売れ残った。賞味期限切れの卵を捨てるように、ぽいぽいと、あちこちの家に放り投げられた。
最後に私が「出荷」されたのは、小学校1年の終わり。冷たい雨の降る春のはじめ。
「ガリガリのやせっぽっちで、腕なんてあたしの小指くらいしかなくって。何食べさせたらいいのさってヤブ医者に飛び込んだら、卵を食わせろって言われたもんだから」
その日、彼女は私に卵を与えた。
卵に書かれた黒インクの化け物は、お前を捨てた両親だ。お前をいじめた養父母だ。
そういって、化け物の絵が描かれた卵を私の前で堂々と割ってみせた。
真っ赤な爪で割られる卵のことを、私はいまでも覚えている。
「医者がさ、卵食べさせれば大きくなる。なんていうから、こっちはすっかり信用するわよね。だから名前まで……」
「希美……きみ。に、したんでしょ。1万回は聞いた」
私は思わず盛った数字を言ってしまって、少し照れる。すっかり母の口癖がうつってしまった。
「ね? 名前の通りに立派に育ったでしょう?」
机に突っ伏したまま、彼女は笑う。その顔を見ていると、私もなんだか笑えてしまう。
「おかげで、週に1パック以上食べる卵好きになっちゃったけどね」
「希美ちゃん! ここにいたの」
突如、私の背後から声が響く。
はっと振り返れば、台所の入り口に叔母さん夫婦が立っているのが見えた。
彼女は母の妹の一人だが、母にはちっとも似ない堅実で生真面目で、真四角な人である。今もまた、生真面目な顔をして私のことをじっと見つめている。
「何してるの……料理なんて今、しなくても」
叔母は机の上にある皿を見て目を丸くした。
「昨日から気が張ってたから、お腹が空いたんじゃないか」
「もう、始まるから。それはあとにしなさい。ほら、はやく……」
ふたりとも目元は赤く腫れている。手には数珠、体には喪服。きっと母はこの姿を見れば、地味ね。と笑い飛ばすだろう。
そんなことを考えながら、私は仏間に足を運ぶ。
途端に、雑音に似た多くの声が耳に滑り込む。
「あの子よ」
「ああ、養子の」
「小学生で引き取ったっていう」
「遠い親戚だったんでしょう?」
「まさか……あの人が養子を取るなんてね」
しばらく見ていない間に仏間は様変わりしていた。黒と白の垂れ幕に白い棺桶。いっぱいの花。その真中で、大口を開けて笑う母の写真。
驚くほどの弔問客が、私を見つめていた。
私は刺さるような視線の真ん中に立ち、ゆっくりと息を吸い込む。
「本日は……」
大丈夫。セリフは全部覚えてきた。
算数は苦手だったけれど、暗記だけは得意なのだ。良いことも悪いことも全部全部覚えている。
「……本日は、峯岸陽子のためにお集まりいただきありがとうございます。彼女は……」
言いかけて、私はすっと言葉を飲み込んだ。
あふれかえる弔問客の向こう、赤い爪が見えたのだ。
真っ赤な爪の先、掴んでいるのは白い卵だ。その手がゆっくりと揺れて、段々と薄れていく。
春の青空に、卵みたいな白い雲が浮かぶ。きっと彼女は、あそこの一つに消えていったのだ。また次の命になるために。
それを見て、私は少しだけ微笑んだ。
「彼女は……母は」
覚えてきたセリフを、私は全部一度飲み込んだ。まるで、卵焼きをつるんと飲み込むみたいに。
「最高の、私のお母さんでした」
今夜は卵を沢山食べよう。
これまでの、思い出の数だけ。
そう考えながら、私は静かに頭を下げた。
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