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昼寝から目がさめると、どこにもソウタがいなかった。
目をしぱしぱさせながら、あたしはリビングを見回した。夕陽の射しこむ窓辺にも、その向こうのベランダにも、むだに大きな観葉植物の陰にもソウタの姿は見当たらない。ソウタがつけっ放しにしてるテレビからどっと大きな笑い声が響いた。
あたしは寝癖で乱れてしまった白い毛を整えながら、そっと耳を澄ませてみる。ドアの向こうから、ひそひそ話すソウタの声が聞こえた。来客が部屋の中に入り込んできた雰囲気はないから、たぶんデンワってやつをしているのだろう。あたしはドアの向こうに耳を傾けたまま、いつソウタがリビングに戻ってきてもいいように何食わぬ顔を作って毛繕いを続ける。
「うん? シチューだよ。うん、鶏肉の」
ソウタの話し声ににじむ穏やかさに、あたしはデンワの相手はきっとマヒロだな、と思った。マヒロはソウタのつがいって言うか、にんげんが言うところの『恋人』ってやつだ。
「えー、じゃあローストビーフがいい。この前買ってきてくれたやつ。……いいじゃん、おまえも好きだろ。……まじか、サンキュー。さくらこも喜ぶわ」
急にあたしの名前が聞こえて、思わず耳がぴくっとする。あたしは毛繕いを中断してドアを見つめた。
「うん、じゃあ六時な。待ってる」
ひときわ優しい声がそう告げて、それからドアの向こうは静かになった。あたしは慌てて何食わぬ顔を作って、毛繕いを再開する。
ガチャ、とドアが開き、ソウタが部屋に入ってきた。片手にはやっぱりスマホってやつを持っている。
「あれ、起きたのかさくらこ」
ソウタの声にあたしはパタンと尻尾を振ってみせた。
「どしたの、起きたらひとりで寂しかった?」
ソウタの大きな手があたしの頭を撫でる。実際はソウタの言うとおりなんだけどそれを指摘されたのがなんだか癪だ。
べつに。ソウタの声聞こえてたし。
あたしはちょっとした嫌味を言ってみせた。ふわふわと浮き立った雰囲気のソウタは相変わらずにこにこと微笑んでいた。
「真紘、さくにもお土産買ってきてくれるって。よかったな」
ソウタの指があたしの耳の下をくすぐる。
そう、気がきくわね。さすがマヒロ。
ごろごろと喉を鳴らしながら鷹揚に答えてみせる。ソウタがクスッと笑った。
よかった、明るい顔をしてる。あたしはそっと安堵した。ここ一ヶ月くらいのソウタは、なんだか少し元気がなかったから。つけっ放しのテレビを眺めながらどこか遠くを見ているような目をしたり、突然ちいさなため息を吐き出したり。どうしたんだろう、って不思議に思っていたから、今ソウタが楽しそうにしているのが嬉しくて、安心する。
「さ、夕飯の支度しないとな」
スマホをテーブルに置いて、あたしをひと撫でして、ソウタはキッチンへと向かう。あたしはまたソファに横になって、その背中を見送る。ソウタが料理をしているあいだは、あたしはキッチンに近づいちゃいけないことになっているのだ。
冷蔵庫を開けてごそごそとたくさんの食べ物を取り出すソウタの横顔はやっぱりどこか楽しげだ。自分だけの食事はたいていレトルトってやつとか買ってきたお惣菜で済ませるのに、マヒロが来るときだけはいつも自分で料理をしている。メインをソウタが手作りして、おかずをマヒロが買ってくる。それがいつものパターン。
マヒロはたいていあたしにもちょっと高級な猫缶とかお気に入りのおやつとかをお土産に買ってきてくれる。だからあたしも、マヒロが来るのは大歓迎。
二人はあまり外に出かけてご飯を食べることがない。デートってやつも、いつもこの家でやっている。それは、あたしを家にひとりぼっちにしないためだけど、どうやらもう一つ理由があるらしい。
いつだったか、このソファで二人並んで座りながらソウタが言っていた。
「いつもウチでご飯食べるばっかりになっちゃうなぁ」
眉を下げて、少し申し訳なさそうに笑うソウタ。彼をちらっと見て、マヒロはちいさく頭を振った。
「いいよ、さくらこに会えるの嬉しいから。それに、外に出かけてじろじろ見られたり変に勘繰られたりするの嫌だし」
マヒロの手が、ソファに寝転んでいたあたしを撫でた。ソウタのよりも指がすらっとしてて少し冷たくて、でも同じくらい大きな手。
ソウタとマヒロは、二人ともオスだ。
二人が恋人だと気づいたとき、あたしはもちろんとても驚いた。もしかして、にんげんはそういう、同じ性別同士でつがうものなのかなって思ったりもしたけど、でもテレビを見るかぎりどうやらそういうわけでもなさそうだし。
どうしてなんだろう、って不思議だった。だけど、そんなことはすぐにどうでもよくなってしまった。
だって、二人で一緒にいるときのソウタとマヒロは、いつもとても幸せそうな顔をしているから。まるで春の日差しが降りそそぐ窓辺でお昼寝しているみたいな、穏やかであたたかい表情。それを見ていると、二人が幸せならなんだっていいか、という気持ちになる。ソウタはあたしの同居人だもの、一緒に暮らす人にはいつも笑顔でいてほしいのは当たり前のことだ。
それに、あたしがソウタと出逢ったときも、ソウタの隣にはマヒロがいた。
それは冬の終わりの寒い夜だった。びゅうびゅうと音を立てて冷たい風が吹いていて、星もない空は黒々としていた。
あたしは狭い箱の中にいた。眠る前までは母さんと一緒にいたのに、目が覚めるとひとりきりで、ここがどこなのか、なんでこんなところにいるのか、何もわからなくて怖かった。ハンカチ一枚が敷かれてあったけれど当然そんなもので寒さが防げるはずもないし、あたしはぶるぶる震えながら必死で母さんを呼んでいた。黙っていると、本当にひとりぼっちなんだって思い知らされるから。
でも、何度呼んでも返事はなくて、寒さもだんだんひどくなっていって、お腹もすいて、あたしは疲れ果てていた。声を上げる元気すらもなくなっていった。
そのとき、ぱかっと天井が開いた。びっくりしてると、のっそりとにんげんの顔が覗いた。それがソウタだった。
「仔猫だ」
大きな手が箱の中に入ってきて、あたしに触る。もちろん抵抗しようとしたけど、とても疲れていたし、なによりその手からじんわりと感じるぬくもりが心地よかったから、あたしはその手にすり寄った。
「よしよし。寒かったね、寂しかったね」
両手であたしを抱き上げて、しっかりと胸に抱えて、ソウタが言う。あたしは嬉しかった。思わずヒゲがぴるぴる震えるくらい嬉しかった。ソウタが言うとおりあたしはとっても寒くて寂しかったけれど、それを分かってくれて、労ってくへるひとがいることで胸がぽかぽかした。ソウタのあたたかい手の中で、あたしは声を上げて泣いた。
「おい、颯太。あんまり構うと情が移るぞ」
ソウタの後ろからもうひとり、にんげんがこっちを覗きこんできた。ソウタが悲しそうな優しい顔をしているのにたいして、そのもうひとりは怒っているみたいな困り顔をしていた。
「真紘。でも、ほっとけない」
「じゃあ飼うのか? 分かってるのか、飼うってことはこの子のじんせ……一生をこれからずっと背負ってくってことなんだぞ。エサやトイレの世話を毎日しなきゃいけないし、病気になれば病院に連れてかなきゃいけないし、去勢とか避妊だって」
そう言うと、マヒロはソウタの手にいたあたしを下から覗きこんで、おしりのあたりを見た。
「この子はメスだから避妊するとして、けっこうな金がかかるんだぞ。それに可愛いだけじゃなくて、思い通りにならないことばかりだ」
そのときのあたしは、マヒロの言っていることの意味なんて半分も分からなかった。なんだか怖い声だし、嫌なことを言ってるんだろうなって思っていた。
でも、今なら分かる。マヒロは優しくて臆病なのだ。
「分かってる」
ソウタがあたしを抱きしめる。このぬくもりを離したくない。あたしはソウタの服に爪を引っ掛けた。
「でも、それでもやっぱりこのまま捨てておけないよ。俺、この子を飼う」
マヒロが小さくため息をついた。
「おまえんち、ペット飼えるのか?」
「うん。ペットも楽器もオッケーだったはず」
「そうか」
マヒロがじろりとあたしを見下ろして、手を伸ばしてくる。あたしはソウタと引き離されたらどうしよう、と体をこわばらせた。けれど、マヒロはそっとあたしの頭を撫でただけだった。
「俺も、できるかぎりサポートする」
耳の後ろをくすぐる指が気持ちいい。思わずごろごろと喉が鳴る。
「ありがとう、真紘」
ソウタがにこっと微笑んだ。
そうして、あたしはソウタと一緒に暮らしはじめた。
ミルクの甘くていい匂いがふわりと漂ってくる。キッチンを見ると、牛乳パックを持ったソウタが鍋の中にトポトポと注いでいるところだった。ミルクの匂いにつられるようにお腹が減ってくる。マヒロが持ってきてくれるお土産が楽しみだ。
と、そのとき机の上のスマートフォンが賑やかな音で鳴りだした。あたしは耳を後ろに倒す。
「ああ、ごめんな、さく」
鍋の火を止めて、ソウタが急いでやってくる。マヒロからかもしれない。ソウタもそう思ったようで、リビングにやって来る足取りは少し浮かれているみたいだ。
ソウタはスマホを取って、けれど顔をしかめた。目の奥からすっと光が消える。十秒くらいうるさい音を鳴りっぱなしにしてから、ソウタはスマホを耳に押し当てた。
「母さん? どうしたの」
あたしはゆっくりと首を持ち上げた。とたんに元気をなくしたソウタの顔をじっと見つめる。
あたしは今でも母さんのことを思い出すくらい母さんが好き。だけど、どうやらソウタはそうじゃないみたい。母さんからの電話のとき、ソウタはいつも緊張して、少し落ち込む。
「うん、いい式だったね。……うん。いや、俺はまだ……。それ、この前も聞いたって」
笑ってみせるソウタの口元がちいさく引き攣っていることに、あたしは気づく。ソファから下りて足元に体を擦りつけると、しゃがみこんだソウタが背中を撫でてくれた。そのあいだも、強張ったソウタの声とデンワの向こうの甲高い声はずっと話を続けている。
世間のにんげんの若者たちは、夏のうんと暑い日や冬の寒さが厳しい日に「キセイ」ってやつをするのが一般的らしい。どうやら生まれ育った場所や母さんのいるところへ帰ることのようだ。テレビで、にんげんがわんさか集まってごった返した様子を映しているのを見たことがある。だけど、ソウタはこれまで「キセイ」をしたことがなかった。少なくともあたしが来てからは。
もちろんあたしをひとりにして行けないっていうのもあると思う。ソウタはそういうところにたくさん気を配ってくれて、ダイガクのサークルガッシュクとかカイシャのノミカイとかいうのにもほとんど参加しないで、なるべく早く家に帰ってきてくれる。
だけどついこのあいだ、とうとう「キセイ」ってやつをした。
マヒロとの会話やデンワで話していた内容によると、どうやらソウタのメスのきょうだいが結婚したらしい。……それにしてもこの「結婚」って変なことだと、あたしはつくづく思う。子どもを作ることが目的なら「オスとメスをひとりずつ」にするのは効率が悪いし、子どもを作るのだけが目的じゃないなら「オスとメスだけ」にする意味がわからない。まぁ、にんげんにはにんげんの都合ってものがあるんだろうけど。
ソウタがつけっ放しにしているテレビを見ていたら、あたしにも結構にんげんの世界ってものがわかるようになってきた。一緒に暮らす相手がどういう世界を生きているのか知るのは、たぶんとても大切なことだ。
で、その結婚のための行事をやるとかで、ソウタはキセイしていた。その直後からだ、ソウタのようすが変になったのは。
「んん……俺には俺のペースとかあるしさ、……うぅん、そうだね。うん、うん……」
あたしの背中を撫でるソウタの手の動きが、だんだんと鈍くなっていく。ついにはぎゅっと固く握り締められた手に、あたしはぐいっと頭を擦りつけた。
キセイから帰ってきて、ソウタはため息が増えた。テレビやスマホに視線を向けたままどこか遠くを見ていたり、考え込んだりすることが増えた。そうやって、ぼんやりしながらもかすかに緊張しているみたいな顔を見るたびに、あたしの鳩胸はざわざわと音を立てる。
「うん、じゃあまた……」
デンワが終わったらしいソウタは、重苦しいため息を吐き出した。
元気出してよ。マヒロが来るんでしょ。
そう言うと、ソウタはあたしの頭をちょっと撫でてからまたキッチンに戻っていった。丸まった背中を見送りながら、あたしはだらんと尻尾を垂れる。大切な人には、いつも元気でいてほしい。たったそれだけのことなのに、こんなにも叶えるのが難しい。
しばらくして、またスマホが鳴り出した。今度こそマヒロからだったようで、ソウタは玄関のドアを開けに行く。
「お邪魔します。さくらこ、ほらお土産」
リビングに入ってきたマヒロが手にしたビニール袋を掲げる。あたしは彼の足元へ行って、さっきソウタにそうしたように体を擦りつける。
またソウタの元気がないの。マヒロ、なんとかしてよ。
あたしは彼に言い募る。ソウタがキセイしている間、あたしはマヒロの家に預けられていたから、マヒロもソウタがキセイしていたことは知っている。そして、その直後からどこか沈みがちなことも。
マヒロの指があたしの喉をくすぐった。いつも少しだけ冷たい指は、今日はいっそうひんやりとしていて、どこか動きがぎこちない。
ちょっと、マヒロまでどうしたのよ。
思わず大声を上げる。マヒロはまたあたしの頭を撫でて、キッチンのソウタのところへ行った。
「これ、ローストビーフ」
「おお、サンキュー。お皿盛っといて。あ、ビールもあるじゃん」
「だめ、それは夕食終わってから」
会話とともに次々と食べ物かテーブルに並び、ふたりが向き合って椅子に座る。あたしも開けてもらったばかりの高級な猫缶を食べるため、キッチンの隅のごはん場に向かった。
「……本当はご飯食べてから話そうと思ってたんだけど」
マヒロがぽつりと呟く声が聞こえてきた。その声がなんだかピリピリとしていて、あたしはぴくりとヒゲを震わせる。
「え、なに?」
マヒロのピリピリが移ったみたいに、答えるソウタの声も硬くなる。あたしはごはんを食べるのを中断して耳をそばだてた。
「颯太、一緒に住もう。もちろんさくらこも一緒に」
「……え?」
思わずあたしも固まってしまった。これは予想外の流れだ。息をひそめて、ふたりの会話を聞く。
「おまえ、実家帰ってからちょっと沈んでたろ」
苦笑まじりにマヒロが言う。「そんなこと……」と否定しようとしたソウタも、それが事実なのでそれ以上言葉が続けられないみたいだ。あたしはふたりの顔が見える位置にそっと移動した。
「まあ、だいたい何があったかとか、何に悩んでるかはわかってるつもりだよ。俺たちはいわゆる『普通』とは違うわけだから、『普通』の生き方をできる人たちの姿や言葉に自分を否定された気がして傷つくのは、俺もわかる」
マヒロが目を伏せる。ソウタもテーブルの上の手をぎゅっと握りしめた。
その気持ちは、あたしにもわかる。
みんなからはみ出してひとりぼっちなのって、やっぱり心細いしとても悲しい。母さんたちから引き離されて、真っ暗な箱の中でひとりぼっちで泣いてたあたしにも、それはわかる。
「でも、俺は」
マヒロの目がまっすぐにソウタを見つめた。
「俺は、たとえば上司に彼女のひとりもいないのかとか男は結婚して一人前とか言われて、ああもう疲れたなあって思うとき、颯太にそばにいてほしい。それで、颯太がたとえば母親からまだ結婚しないのかとか孫の顔が見たいとか言われて落ち込んだときは、俺がそばにいたい。ちゃんとそばにいたいんだ」
固く握りしめられたソウタの手に、マヒロの手がゆっくりと触れる。
「『普通』とか『世間体』とかそういうのがのし掛かってくるときは、一緒に重さを分け合いたい。そうすれば、世界の重さにも耐えられると思うから」
「……一緒に暮らすってことは、相手の一生を背負うことだよ。さくらこを拾った日、真紘が言ってただろ。俺もその通りだと思う。その通りだって、さくらこと暮らしてわかった」
「うん」
あたしはソウタの足元に行った。靴下越しでも、足の指が強張っているのがわかる。あたしは硬い脚に寄り添って座った。ソウタがあたしの頭を静かに撫でる。
「俺とさくらこの重さも背負って、余計に重い荷物を背負い込んで、それでも世界の重さに耐えられるか?」
「耐えられるよ。耐えてみせる。颯太が隣にいて、俺の重さも分け合ってくれるなら」
言い切ったマヒロの声は力強く、そしてとても優しかった。
あたしも。あたしも、ふたりの重さを背負う覚悟はできてるんだからね。
ソウタとマヒロに向かって、あたしも大きな声で誓う。
あの日、あたしを見つけてくれたふたりのために、あたしもふたりのそばにいたい。
ソウタとマヒロが揃ってあたしの顔を見る。それから顔を見合わせて、ふっとほどけるように笑った。
「俺も、おまえのそばにいたいよ。一緒に住もう」
ソウタがマヒロの手を握り返すのがあたしにも見えた。その表情は晴れやかで軽やかで、春の陽だまりのなかにいるみたいに幸せそうだった。撫でられたわけでもないのに、思わずごろごろと喉が鳴る。
たぶん、みんなから少し外れているふたりには、きっとこれからも冷たい夜がたくさん訪れるんだと思う。星も見えない真っ暗な夜、びゅうびゅうと風が吹きつける冷たい夜を、いくつも越えなくちゃいけないかもしれない。ふたりで分け合っていても、『世界の重さ』ってやつに負けそうになることもあるかもしれない。
でも、世界には明るくて優しくて幸せなことも同じくらい溢れていると思う。だって、暗い場所でひとりぼっちで泣いていたあたしを、ソウタとマヒロが見つけてくれたんだから。世界にはそういう優しい光があることを、あたしは知っているから。
互いに照れ笑いを浮かべながらごはんを食べはじめたふたりのために、あたしは高らかに祝福を告げた。
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