猫の舌で舐める

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 ──生まれ変わったら、猫になりたい。  仕事か人間関係かわからないが、人生に疲れた人はそんな言葉を吐く。私も目の前の営業車のボンネットで、昼寝をする野良猫を見て思う。 「……ごめんね」  申し訳ないが、その車で私は営業に行かなければならないのだ。私が近づくと猫は不満そうに鳴き、ボンネットから降りた。泣きたいのはこっちだよ。    その後、営業から帰ってきたがやはり散々だった。取引先には怒鳴られ、別のところでは優しく対応してくれたと思えばお尻を触さられる。思わず抵抗すれば、「お前みたいに死んだ目をした暗い女、体しか取り柄ないだろうが」だと。  いや、「死んだ目をした暗い女」というのは自覚しているが、セクハラにあって喜ぶ女がどこにいるのか。社員の一人が突然無断欠勤で会社に来なくなり、穴埋めをするような形での異動だったが、やはり私には営業は向いてない。  ふらふらと帰路に就いていると、道中でいい匂いを私の鼻は嗅ぎとった。お菓子のような甘い匂い。  花に誘われる蝶のように匂いを辿って脇道の狭い路地を進んだ先、人通りの少ない場所にその店はポツンとあった。夜だというのに明かりが点いているということは、まだ営業中なのか。  看板には「猫の舌亭」とだけ書かれている。  そっと店の扉を開けると、ぶわりと甘い匂いと暖かい空気が私を包み込む。中はカフェのようにテーブルと椅子があり、そして──。  にゃーん。  店内にそびえ立つキャットタワーや床に数匹の猫がそれぞれくつろいでいて、自由に過ごしていた。そのうちの一匹が、私の足にすり寄る。金色と青い瞳のオッドアイを持つ、雪のように白い猫だ。 「いらっしゃいませ」  奥から現れたのは一人の青年だった。三〇歳前後だろうか。切れ長の瞳に整った鼻筋で、スタイルもモデルのようにいい。ミステリアスな雰囲気のイケメンだ。胸元のネームプレートには、「猫屋敷(ねこやしき)」とある。 「……あ、あのここって、何の店ですか? 猫カフェ?」 「それで合ってます。わかりづらいですよね……私一人で切り盛りしてるので、あまり人が来ないようにしてて」  しどろもどろな私の質問に対し、店主である猫屋敷はにこやかに答えてくれた。  確かに猫カフェは人気だから、大体的に知られたくないのだろう。この街に住んでいる私も知らなかったほどだから、その戦略は成功と言える。 「あと、このお店の対象は、お客様のような仕事帰りの方たちなのです。仕事の疲れを癒せるように、夕方から開店していて……お茶でも一杯いかがですか? 『マユミ』もお姉さんのこと気に入っているみたいですし」   この白い猫は、「マユミ」と言うのか。確かにここまで来て何も頼まず帰るのも心苦しいし、これも何かの縁。お言葉に甘えて、何か注文しよう。  私は座り心地の良いアンティーク調の椅子に座り、見せてもらったメニュー表から、「猫の舌亭セット」を選んだ。こういう時は、定番を頼むが一番だ。  膝に乗ってきたマユミを撫でるとゴロゴロと喉を鳴らし、お返しとばかりに私の指先を舐めてくれた。猫の舌特有のザラザラとして感触がする。  私の毛繕いでもしているつもりなのだろうか。 「マユミちゃん、私に毛はないよ~」 「それはですね。『アログルーミング』と言って、愛情表現の一種なんですよ」  いつの間に傍にいたのだろう。トレーを片手に、猫屋敷が後ろに立っていた。 「毛がないお客様には少々痛いかもしれませんが、ここの猫は特別な子たちで心を毛繕いしてくれるんですよ」 「……心を?」 「疲れてストレスが溜まった時って、心がささくれません? で、周りに当たってしまったり……そんなトゲトゲした心を、ここの猫はその櫛のような舌で整えてくれるんです」 「へ、へぇ~」 「あはは、その感じは信じていないでしょう。でも、きっと触れ合っているうちに実感しますよ……あなたの辛さや悲しみも一緒に舐め取ってくれますから」  猫屋敷はそう言うと、トレーの上に乗せていた料理を私の前に配膳してくれた。 「お待たせしました。こちらが『猫の舌亭セット』です」  「猫の舌亭セット」の内容は、ハーブティーにクッキーとシンプルな物だった。クッキーは楕円形の形をしており、表面はザラついている。 「猫の舌亭セットのメインは、そのクッキー──『ラングドシャ』なんです」  それなら知っている。普通のクッキーは作る際に卵黄を使って作るが、ラングドシャはよく泡立てた卵白で作るため、ザラついた表面にメレンゲのようにサクッとした軽い食感が特徴のお菓子だ。 「『ラングドシャ』はコーヒー、紅茶と様々な飲み物に合うお菓子で、御要望に合わせてセットの飲み物を変えるんです。今回、お客様はとてもお疲れのようだったので、リラックスできるようにハーブティーにいたしました」 「ありがとうございます……でも、ここのラングドシャは正方形じゃなくて楕円形なんですね」  私が知るラングドシャは、有名な北海道土産のホワイトチョコレートをサンドした某恋人の正方形だ。 「日本では正方形が多いですが、本場のフランスではラングドシャはこの形ですよ。そもそも『ラングドシャ』ってどういう意味か知ってますか?」 「……いいえ」 「『langue de chat』──『猫の舌』っていう意味ですよ。ザラザラとした表面がそっくりでしょう。だから、本当は舌の形である楕円なんです」  猫屋敷は、ティーポットからティーカップにハーブティーを注ぐ。ハーブのいい香りが辺りに広がった。 「Bon appétit」  よく分からないが、おそらく「召し上がれ」的な意味だろう。私は促されるまま、ハーブティーを一口飲んだ。 「……美味しい」  一息ついて、私は思わず呟く。深く息を吐き出したことで、肩の力を抜くことが出来た。  続いてラングドシャに手を伸ばす。皿の上に乗せられたラングドシャは全部で五個、チョコレートとバターと味は二種類で、どちらも甘すぎず口の中で溶けるように消える。こんな夜中でなければ、カロリーとか気にせずに何個でも食べたいところだ。  膝の上で寝始めた白猫のマユミの程よい重さと温もり、苛立ちを収めてくれるようなラングドシャの甘さ、そしてハーブティーによって私の体は外や内側からも包み込まれるように温められた。 「余程疲れていたんですね……これで、拭いてください」  猫屋敷は私にハンカチを差し出す。気づかないうちに私は、泣いていたようだ。 「ごめんなさい。実は今の仕事、向いてなくて……私、頑張っているのに。褒められるどころか、怒鳴らればかりで……」  私は猫屋敷のハンカチで目元を抑えると、今まで抑えていた心の悲鳴が決壊したダムのように目から涙として溢れ出す。 「別に褒めなくても、いいんです。私がダメなのは本当だから……で、でも、せめて『頑張ったね』とか、『お疲れ様』って言って欲しいって……思っちゃダメなのかな」  ある程度、吐き出すと涙も収まった。  それと反比例するように、大の大人がみっともなく泣いたことへの羞恥心が湧き上がってくる。ハンカチも涙に加えて、アイシャドウなどの化粧でも汚れてしまっている。 「猫屋敷さん、すみません……このハンカチ、洗って返しますので」 「お名前なんて言うんですか?」 「え?」 「お客様のお名前です」  猫屋敷が私の顔をジッと見つめて、尋ねる。  普通だったら「ナンパか?」と思うところだが、私はここで猫屋敷の瞳が吸い込まれるような綺麗な色をしていることに気づく。光の当たり具合で、深い緑青のようにも見える色。もしかしたら彼は外国人とのハーフで、だから流暢なフランス語を話すのかもしれない。  私は催眠にでもかかったように、意識する前に自分の名前を告げた。 「……美弥、江澤美耶(えざわみや)です」 「美耶さん」  猫屋敷は壊れ物を扱うように私を優しく抱きしめて、言う。 「美耶さんは頑張ってますよ……だって、こんなに泣くほど自分を追い詰めてまで頑張ってるんですから。他の人は何と言おうとも、私は美耶さんに『お疲れ様』って言います。だから辛くなったら、いつでも来てください」 「……いいんですか?」 「もちろん──っても、ここで提供できるのはラングドシャと飲み物。それと」  猫屋敷が私を抱きしめたことによって居場所を奪われ、床に下りたマユミが不満そうにこちらを見上げている。猫屋敷はそんなマユミに申し訳なさそうな顔をしつつ、私に言った。 「猫たちぐらいですが」  私は彼の肩に顔をうずめ、縋るように言った。 「充分です……それで、充分」 「一つだけ言っておきます。人でありたいのなら、ここの猫に目を舐められてはいけませんよ」 「『目』を?」 「涙はギリギリセーフかな。わかりましたか?」 「うん、うん……わかった」  猫屋敷から香るラングドシャの甘い匂いに、私は夢心地なまま答えた。    ──あぁ。この甘い香りに包まれたまま、もう何も考えたくない。    実際、この時に私はもう考えることを放棄していたのかもしれない。だから、肩に顔を埋めていた私は気づかなかった。  猫屋敷の深い緑青のような瞳の中にある瞳孔が、猫のように縦に細長くなったのを。
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