猫の舌で舐める

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「いらっしゃいませ……って、どうしたんですか。美耶さん」  店に入ってきた私を見て、猫屋敷が驚いたように声を掛ける。  それはそうだ。こんな雨の中を傘も差さず、びしょ濡れの女が入店してのだから。でも本当に近頃は私の人生は上手く言っていたのだ、仕事──そして恋愛も。  前から「いいな」と思っていた同じ仕事場の男性からアプローチされて、そのまま男女の仲になって……私は幸せの絶頂にいた。なのに今日、そいつに捨てられたのだ。  「本命がいるから」って、さ。私は所詮バーの棚に飾られてあるような、キープボトルだったのだ。  そして本命と上手くいった今、私は用済みで。しかも私と本命の交際期間は被っており……つまり、二股をかけられていたのだ。だからって、聞き入れられるわけない。私は「どうして」「捨てないで」と泣いて縋った。 「本当、女って面倒だな。キーキー喚いて……真弓も『死んでやる』なんて捨て台詞吐いて消えてさ」  真弓──立川真弓(たちかわまゆみ)は同じ職場の女性だ。彼女が無断欠勤で会社に来なくなったのが原因で、私は慣れない営業職に異動になったのだ。  そこで私は彼女も同じように彼に捨てられ、会社に来なくなったことを悟る。 「お前も真弓みたいに消えるなよ? 俺が変な目で見られるんだからな……まぁ、お前みたいな地味女が俺と付き合ってたなんて周りは信じないだろうけど」  そこからの記憶は曖昧だが「猫の舌亭」での温もりを求めて、夢遊病患者のように私は店に向かって歩いたことは確かのようだ。  猫屋敷が店の奥からタオルを持ってきて、濡れた私を拭いてくれる。私と言えば借りてきた猫のように、ただ為すがまま。ある程度水分を拭き取った後、猫屋敷はいつものように暖かい紅茶とラングドシャ──「猫の舌亭」セットを持ってきてくれた。 「何があったかは無理に聞きません。ひとまず、体を暖めましょう……このままじゃ、風邪をひいてしまうので」  猫たちも私を暖めるように私の周りに集まり、そのザラザラとして舌で傷ついた私の心を慰めてくれる。  いつもなら、これで充分なのに──。 「……猫屋敷さん」 「何ですか?」 「また、いつものように『お疲れ様』って言ってくれませんか」 「お疲れ様です。美耶さん」 「『頑張ってるね』って言ってください」 「美耶さんは、頑張ってます。今日も頑張りましたね」  猫屋敷も、いつものように私が望むこと言ってくれる。なのに、どうしてだろう? 今日は、何故か満足できなかった。 「猫屋敷さん──『私のことが好き』って言って」  猫屋敷が息をのむ音が聞こえた。でも、私の欲求は止まらなかった。 「ねぇ、お願いだから、嘘でもいいから。初めて来たときみたいに抱きしめて、『私のことを好き』って、『愛してる』って言ってよ」  だが、猫屋敷は何も言わない。私の視界は、また涙で滲んだ。 「困らせるようなことを言ってごめんなさい……でも、もう辛いんです。誰からも必要とされないのは嫌。また誰からも見向きもされない、『私』を見てくれない生活は嫌。もう全部が嫌なの」  私は子供のように泣きじゃくった。私がなりたかったのは子供は子供でも、キラキラとした目をした存在だったのに。 「それは美耶さんが人間だからですよ」 「……『人間』だから?」 「『幸い』と『不幸』という知って作ってしまった存在だから……不幸なんです」  そう言って猫屋敷は足元にいたマユミを抱き上げ、私とマユミの目線を合わせさせた。マユミは零れ続ける私の涙を舐め続け、その舌はだんだん涙の元である目に近づいていく。 「だったら、そんな概念を知らない存在になりましょう。ね?」
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