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『10:58 鈴の音』
祥子の細い文字を見つけたとき、小さな悪寒が走った。
鈴というのは、猫が首輪につける鈴のことだろう。時刻も猫の特徴も、つぶさに書く彼女のメモにしては曖昧だ。祥子なら「鈴をつけた猫」と書きそうなものだが、音だけを聞いたということか。そもそも、俺は窓の外に鈴の音を聞いたことがない。彼女は何を書いているのだろうか。
この日の原稿は得意ジャンルの海外サッカーがテーマだったため、気負いなく執筆することはできた。気負いこそなかったが、まったく捗らない。常に聞き耳を立てていて消耗させられるし、こういう日に限ってほかの猫はまったく姿を現さないし、結果的に時刻表には何も書き加えることがないし、ひどく非効率な一夜だった。
「おはよう」
気もそぞろに返事をする。落ち着かず、立ちっぱなしでいるべきかイスに座るべきか迷い、意味もなく蛇口から水を出して手を洗った。
「飲むの?」
聞かれたので、特に考えもせず「うん」と言った。のどが異様に乾いている。勢いでブラックのまま口をつけた。
「さては終わってないな?」
「いや、どうにか終わって送ったよ」
よほどのことが無い限り、原稿はそのままサイトに掲載される。マニアックな目線で好きなサッカー選手について書いたが、たまにはそんな記事もいいだろう。あっそ、とコーヒーを飲みながら祥子が言った。
「私も大きな締切は終わった。コンペの結果が今日出るんだって」
「いけそうなの?」
「手ごたえはあるよ」
おお、とか、へえ、というような音を出して反応しつつ、ここから鈴の猫の話題へ持っていく方法を模索するが、道は見つからない。
「寝るんでしょ? おやすみ」
扉を閉ざされた気がして、マグカップをテーブルに置きながらおやすみと言った。初めてのプレゼントを用意した日、結局渡せずに帰ってきたときとまったく同じ気分だ。
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