わすれがたみ

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 3年前に別れた妻の葬式に参列し、帰りに猫を預かることになった。  わたしたちに子供はなく、元妻は家族と疎遠だったため、彼女の長年の友人だという女性が喪主を務めていた。  街はずれの式場で行われた簡素な式が終わり、わたしはその女性に呼び止められた。  元妻が進行の早いガンに冒され入院していたということ、入院中わたしに連絡しようとした友人を強く引きとめたこと、元妻が離婚してからずっと一匹の猫を飼っていたことなど、初めて聞く話ばかりだった。  別れてから一切連絡を取っていなかったわけではないが、たとえ死期が近づいていたとしても、わたしを頼ろうとは思わなかったのだろう。  あるいは弱った自分を見せたくなかったのかもしれない。いずれにせよ、彼女の死を看取ることは許されなかった。あらためてそう思い知ると、いまさら後悔のような苦く暗い感情が心に広がっていくのを感じていた。  そんなとき、猫に会っていきませんかと問われ、わたしはうなずいた。  彼女に案内され、元妻が暮らしていたという1LDKの部屋に足を踏み入れると、そっと黒猫が姿をあらわした。ビロードのような光沢の中に、こちらを値踏みするようなイエローの瞳が2つ静かに輝いていた。きれいな猫だな、と思った。 「彼女が入院してからはあなたが世話を?」 「はい。おとなしいというか、あまり感情を出さない子です。飼い主に似たのかもしれませんね。人なつっこい訳でもなく、人を寄せつけない訳でもない」  たしかに、飼い主に似ているのかもしれない。 「でも、この子は人を選んでいるように思えます、私に対してどこか遠慮があるというか。なんとなくそう感じるんです」 「わかるような気がします」  猫はもうこちらに興味をなくしたらしく、窓の外を静かに見つめていた。 「でも、基本的にはいい子ですよ。トイレのしつけもしっかりできていますし、人を困らせるようなことはありません。もしよろしければ、飼ってみませんか?」 「でも、猫は飼ったことがないんです。犬ならむかし実家にいたんですが。それに、どうやらわたしは猫アレルギーらしくって」 「そうなんですか? この部屋、今月中には出ていかないといけなくて。本当は私が引き取って上げられればいいんですが、うちのマンションはペット禁止で」 「そうすると、この子はどうなるんでしょうか?」  わたしは主を亡くした猫を見つめ、とても明るいとは言えない未来を想像してしまった。横の彼女も同じだったらしく、深いため息をもらすのが聞こえた。その少々深刻な響きに誘われるように、わたしは柄にもないことをしてみたくなった。  そんなわけで、わたしは元妻の猫を引き取ることにした。  部屋にあった移動用のケージに猫を入れ、猫用のトイレや餌を車に積み込み、彼女に喪主を務めてくれたことの礼を伝えた。彼女は猫の行く末をとても気にしていたようで、逆にこちらが恐縮するほど感謝された。その子、あまり毛が抜けないんです。だからきっとアレルギーにはなりにくいと思います。わたしもそう願うことにした。    黒猫とのくらしは、実際のところ決して悪くはなかった。  元妻はクロと呼んでいたらしく、安易なネーミングだとは思ったものの改名するのも気が引けたので、それに倣うことにした。  喪主の彼女の言うとおり、クロは手のかからない猫といえた。残念ながらわたしのアレルギーは健在で、クロを触ったあとは目や鼻がむずむずしたのだが、向こうも触られるのを好まないようだったので、わたしたちはお互い適度な距離を保ちながら共同生活を送っていた。  クロはわたしに対して懐くわけでもなく、拒絶するわけでもなく、過度に干渉しあわないこの生活に満足しているように見えた。とはいえ、単にわたしが元妻の面影を重ねているだけで、猫というのはそもそもそういう生き物なのかもしれない。  49日も終わり、手慣れてきたトイレの処理を終え砂を入れ替えているとき、わたしは猫砂の中に何かがあることに気づいた。  それは私あての手紙だった。しかし、彼女は生前わたしに連絡をとることを拒んでいたはずだ。そして彼女はわたしが猫アレルギーだということを知っていたから、よりによって猫砂の中にわたしあての手紙を入れておくなんて、とても信じられなかった。  わたしは混乱しながら、いまはもういない彼女からのメッセージに目を走らせた。  そこには、もっとわたしに言いたいことを言いあって、思いっきり迷惑をかければよかったという後悔と、自分の替わりにクロに迷惑をかけてもらうから大事にして、という言葉だけが簡潔に記されていた。  わたしは生前の彼女に対して注ぐべき感情が今さら強く湧き上がってくるのを感じて、しばらくその場に立ちすくんだ。  気がつくとクロがそばにいた。前の飼い主の意向に反して、この子はほとんどわたしに迷惑をかけることがなさそうだ。せいぜい目がむずむずするぐらいのものだ。  わたしが頭をそっとなでると、クロはにゃあ、と小さく鳴いた。 [了]         
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