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「お待たせいたしました。こちら、本日のコーヒーになります」
目の前のテーブルに、薫り高い黒い液体で満たされた白磁のカップ。ミルクとシュガーポット。その横に、直径三十センチ程の平皿が置かれる。料理も菓子の類も乗っていない淡い桃色のそれの円周には、金色の葉が染め付けられていた。
「ごゆっくりどうぞ」
表情を和らげた店員がカウンターへと戻っていくのを視界に入れながら、読みかけの本に栞を挟む。椅子に掛けていた革のショルダーバッグに滑り込ませてから、私はカップの受け皿に添えられたコーヒースプーンを手に取った。
持ち手のところに赤い石が嵌め込まれた銀の匙で、カップの縁を優しく鳴らす。
三回、二回、一回、また二回。
すると波紋一つなかった水面が、ふるる、と小さく脈打つ。
次いで、ぐるん、と狭いカップの中で身を捩る。
ひょこりと小さな頭を縁から出し、周囲の気配を探るように鼻を蠢かせた後、隣に置かれた平皿にそれは軽々飛び移った。
大きく口を開け、前足を突っ張り伸びをする様を見て、思わず笑みが零れる。手に持ったスプーンで力を入れないようにそっと背中を撫でてみると、漆黒に見える毛並みは光に透けるととろりとした茶色に輝く。何度も毛の流れに逆らわずに曲線をなぞっていると、こちらを興味深げに見上げてきた。 赤い目を細めて小首を傾げ、にゃおん、と甘えて鳴いたように見えた。
今度はスプーンを視界に入るように右に左に振って見せる。すると、その小さな体全部を使って捕らえて見せると言わんばかりに、桃色の円内を駆けて跳ねて転がって見せた。動く度に深く香ばしい匂いが、ふわふわと辺りに広がる。私は大きく息を吸いながら、暫しじゃれ合いを楽しむことにした。
ひとしきり戯れた後、長い尻尾を体に巻き付けて丸まった黒い塊。その対角線上に、できるだけ静かにミルクを垂らす。そうして完成した小さな白い円に角砂糖を一つ乗せ、スプーンで崩していく。カツリ、と立ててしまった音を捕まえるように三角の耳がぴんと動いた。ゆるり、と体を起こし、軽やかに純白の水たまりの傍までやってくる。匂いを嗅ぐような仕草をした後、問題はないと判断したのか口をつけたようだ。この瞬間は何度見ても心がときめく。始めは頭。黒一色だったそこに白い筋が見えたと思ったら、小さな渦が生まれ混ざり合い、変化していく。前足、胴体、後ろ足、最後に尻尾。小さな甘い池を飲み干し、その身体を再び丸める頃には全身に広がったマーブル模様は消え、柔らかなミルクブラウンに落ち着くのだ。
私はスプーンを持ち直し、色の変わった背中を一度撫でる。ゆったりと頭を上げたのを確認して、白磁のカップの縁を軽く鳴らす。
今度は二回、一回、二回、三回。
最後の音を鳴らし終わると同時に、しなやかな体で皿を駆けた。そして金色の葉の上で踏み切り、カップの中へ全身がすっぽりと収まった。
私はそこにスプーンを挿し入れゆっくりかき混ぜる。じゃれつくこともない液体に少しの寂しさを覚えるのもいつものことだ。取っ手に指を絡め、持ち上げると振動で水面に波紋ができる。縁に口をつけ、カップを傾けると甘く苦いミルクコーヒーが喉を伝っていく。じんわりと胃の辺りに温かさが広がるのを感じていると、くるる、と腹が鳴った。猫が喉を鳴らすような音に、思わず小さく笑ってしまいながら自分の腹を撫でる。まだ残っている味と香りを楽しみながら本の続きを読もうと、私は再びバッグを開いた。
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