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ある男の証言
男はトラックを走らせていた。緑色に光るデジタル時計は、もう間もなく午前二時になるところだ。男は少し、速度を上げた。休憩はこまめにとっているし特段急ぐ必要はないが、早く人間のいる空間に下りたかったからだ。下る山道は舗装こそされているが暗く、三人の親をしている男でも気味の悪さを感じるような、居心地の悪い道だった。右から左へと曲がる際に垣間見える国道とその周りの家々の光だけが、太陽を浴びた星々のような希望をもたらしている。
山道を運転していると、いろいろな生き物に遭遇する。タヌキ、ハクビシン、ある日の早朝に雄のキジを見たときは、見事で感動すらした。イノシシとぶつかってトラックをへこませてしまった事件は、子供たちを喜ばせた。
野生動物たちを轢かないように、引きそうになっても止まることのできる速度で運転したい。本当は。しかし、今夜は早くこのくらい山道を一秒でも早く抜け出したくてたまらない。その衝動は、毎秒膨らんでいった。
どんなに気を付けていても、起きてしまうのが事故だ。ベテランのドライバーでも急に飛び出して人がいたならぶつかってしまうし、視力に自信があってヘッドライトが正常に点灯していても見逃してしまうものごとはある。今回はどちらもだった老婆と衝突してしまった。頭巾のようなもので顔は見えなかったが、それは老婆だと確信した。理由は三つある。
一つ、成人にしてはかなり小柄であったから。二つ、茶色のような紫のような、とにかく年寄りくさい色の着物を着ていたから。そして三つ、その彼女はかなりの猫背だっ
たから。
こんな時間に、しかもこのような歩道もちゃんとない山道に、人が歩いているはずはないと思うだろう。しかし男はそれどころではなかった。人を轢いてしまった恐怖と、その始末と、そして自分以外の人間がいたことへの喜びに似た安堵により、脳がはじけそうになってい
た。
トラックから飛び降りた男は、よろよろと立ち上がった老婆に声をかけた。着物の膝のあたりを払う様子から、大事にはいたっていない様子だ。安堵と共に、大きく謝った。かすり傷で済んでいたとしても、病院へ連れていこうと申し出た。警察へも報告すると言った。頭を
下げた格好のまま、早口でしゃべってしまっていたことに気づいて、男は顔をあげた。
そして、二つの生きものが、同時に叫んだ。一つは男の。もう一つは、着物をきた毛むくじゃらの生きものだ。
男は叫びながらも、それから目をはなさずにはいられなかった。目を見開けば見開くほど、情報が鮮明に入ってきて今起きていることが現実であると実感できたからだ。これは夢ではない、と。
キジトラの体毛は、ヘッドライトに照らされて先端が銀に光っている。目は大きく、瞳には夜の動物の緑の光を放っていた。頭巾のよう なかぶりものは、よく見れば両サイドが少し盛り上がっている。きっとぴんと立った三角の耳が隠れているのだ。大きく開いた口からは細 い牙がはっきりと確認でき、その中にある淡い肉色の舌には、白く細かい針状のものとその影がくっきりと見える。まるで、猫だった。小 柄な人間くらいの猫が、着物を着て二足歩行をしていた 叫び声が枯れた。ほぼ同時だった。驚きが落ち着き、恐怖のバロメーターが急上 昇した。きっと、何かが起こる。襲われるか、逃げるか。
男が後退しかけた瞬間だった。
猫は怒りのような、恨みのような悪意の目をむき、H音の奇声をあげた。そして着物姿のままガードレールを飛び越え、闇の斜面へと消えた。
男は恐るおそる、ガードレールへ乗り出し、猫の飛んでいった先を見下ろした。斜面の闇は深く、何も見えない。途中で止まって逃げたか、転がりきるところまで落ちたのかは不明だ。
男は汗ばんだ手のひらを、ガードレールから離した。白い粉が、肉にしっかりと付着している。普段なら、この現状に最悪だと悪態をついただろう。しかしやっと心臓が落ち着いた今、それは唯一現実世界を証明しているもののように感じた。二回大きく呼吸をし、震える膝でトラックへ戻った。ヘッドライトも、ボンネットも無事であった。それはそうだろう。イノシシやシカとぶつかったわけではないのだから。男は今しがた見た生きものを再び思い出した。いや、あれはきっと夢だったのだろう。混乱する頭で、一応タイヤとトラックの下も確認した。タイヤは何事もなさそうだった。しかし男は気付いてしまった。ナンバープレートのところには、先ほどのことが事実であったかのような物的証拠があった。
もっと数が並んでいたならキジトラに見えただろう毛が、そこに挟まっていた。引っかかって抜けてしまった毛は、まるでナンバープレートの下に大量の毛があって、無理にしまおうとしたがあふれてしまったかのように、元気よくはみ出して見えた。男はぞっとした。先の出来事は、深夜労働の疲れによるものではなかった。つまり事実であるとこがこれで証明されたわけだ。さて、これからどうしようか。とりあえず、山を下りよう。そして、警察にでも見てもらおう。衝突事故を起こしてしまったからだ。たとえそれが動物であってもなくても
。それに、警察に見てもらえば、人間の様をした猫を見たことが嘘であると証明されるかもしれない。そうなれば、良い。男はドアを閉め、アクセルを踏んだ。警察署の灯りが見えてきた時の安堵は、この上なかった。
巡査はそっと、その紙を伏せた。拙い物語文のようなそれは、自分が勤務中に読むものではないような気がしてならない。いやいやなのが伝わったのか、警部は短くなった煙草を灰皿に押し付け、読めと目で指図した。
巡査は残る読み物の枚数を数えた。二枚だった。
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