鬼の髷はどこに消えたか

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※※※  明け六つ。  白み始めた東の空を見ながら、茂吉(もきち)は吐いた息の白さにぶるりと身を震わせた。暦の上では春とはいえ、会津の地でそれを実感するのにはまだまだ遠い。厳しい寒さに橋の上をはく箒こそ動かしているものの、持つ手はかじかんで表面を滑っているばかりだ。  橋の向こうからこっち、あらかた掃いたことは掃いた。もう止めてしまうかと脳裏に過るが、こういう時に限って、師匠は茂吉の手抜きを見破ってしまう。  そして茂吉には師匠の機嫌を損ねられない理由があった。単純に厳しい師匠から怒られるのが嫌だというのもあるが、茂吉は最近ようやっと客を任せて貰えるようになったのだ。今まで練習でこそ友人や知人の髪を切ったことはあれど、それはあくまで練習であって金銭などとれやしない。何度も剃刀で剃り負けた膝の痛みも、うっかりと鋏で切ってしまった指の痛みも、ようやっと実を結びかけたのだ。それを簡単に手放せるはずもない。  茂吉はかじかむ手に息を吹きかけて、もう一度箒を握った。 「おい。朝っぱらで悪いが、髪を切っちゃあくれないか」  ふいに声をかけられ、手が止まる。  客である。まあなんともせっかちな事だ。なにせ夜が開け切らぬ前、白んだ空にはまだ濃紺の名残が掠れた墨のように広がっている。  しかし、いつ何時であろうが客である。待ちに待った、客だ。まだ師匠は店に来ていないけれど、まだ髪結の道具すら用意していないけれど、客である。  自分の、客だ。  無意識ににやけてしまう顔をきりりとしめて、震えそうになる脚を叩いて平静を装った。 「はいよ」  はやる気持ちを抑えきれず、やや声が上擦ったのはご愛嬌だ。だがそんな気持ちは振り返って声の主を見て吹っ飛んだ。  何故ならそこにいたのは、まるで役者絵から飛び出してきたかのような、美丈夫だったからだ。
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