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はっきり言おう。茂吉は「髪を切れ」という客を前にして、髪結としてあるまじきことに鋏を入れるのを躊躇した。
聞き慣れぬ訛りに見ない顔ーーそもそもこんな美男子なら忘れないだろうがーーなのでどこからか流れてきた浪人だろうと素性の当たりをつけたが、かといって腰に大小も差してはいない。それすら捨てざるを得なかったにしては身綺麗過ぎるし、影がない。かといって勿論町人でも、まさか役者でもない客は、我に返れば怪しいどころか不気味でもあった。
もっとも、これが毛先を整えるだとか、髷を結い直すだとか、月代を剃るだとかいうなら茂吉は素性など詮索せずに嬉々として腕を奮っただろう。
だが客の注文は違ったのだ。
月代を作らなかった総髪は、おろせばゆうに肩を越える。やや痛みはあるものの、さらりと流れる黒い髪。その髪をこともあろうに、この客は、元結からバッサリと切れ、と言うのだ。
いわゆる後に言うざんぎり頭である。
「旦那ぁ……やめませんか。勿体無いですヨォ」
「もったいなかねぇよ、俺がいいつっでんだからばっさりやってくれ」
何度となく繰り返した問答。
後ろ姿からでもイライラし始めているのがわってしまい茂吉は泣きそうになった。まさかこんなことになろうとは。この時期にもかかわらず手にも背中にも汗を滲ませた茂吉は、手が震えないようにするのが精一杯だった。
正直な話。茂吉はざんぎり頭なんて練習でも切ったことはない、第一そんなことをしようもの練習台相手に怒られるのはもちろん、師匠から絶縁されかねない。
会津という土地柄もあってか、茂吉の周りは神職や医者でもない限り総髪ですら珍しい。異国の船がきてこっち、思想家気取りの庶民にも広まったという風の噂はきけど、綺麗に月代を剃り上げ、後れ毛ひとつ出さずびしっと髷を結いあげてこそ髪結と教え込まれている身としては総髪を飛び越えた、ざんぎり頭など罪人の髪を切るときでさえありえなかった。
「……せめて、俺じゃなくて……もう少ししたらお師さんが来ますから……」
「何のためにこんな夜明け前の寒いなかわざわざ来たと思ってやがる。ここの主人は月代剃ってねぇだけで長々説教されるって話じゃねえか。髷落とすなんてぇのをすんなり聞いてくれるとは思えねぇな」
「……え、じゃあなんでうちへ……?」
「できるだけ周りに騒がれねぇうちに切っちまいたかったんだよ。聞いたらここが一番早くから開けてるっていわれからな」
誤解である。喉元まででかかったそれを茂吉は飲み込んだ。
茂吉は自分がさして要領がいいとは思っていない。故に、橋の袂に店を構える以上、仕事の範疇に含まれる橋の掃除や不審者の見張り。さらにを師匠が来るまでに一通りの店の準備を一人でしなければなかったという事情から他より多少早く開店準備をしてるように見えただけだ。そもそも今日は、開店前に勝手に客の髪を切るのである。客の強い要望とはいえ、それとてきっと師匠に怒られるだろうと覚悟した事後報告のどきどきものだ。
「おい」
やれ、と。これ以上の押し問答は無駄とばかりに睨まれ、その眼光鋭さに震え上がった茂吉はおずおずと鋏を握った。髪を前に、少し、手が震えてしまったのは墓までの秘密だ。刃物を持つ、その、一挙手一投足を見られている、それは錯覚だと思いたかった。
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