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「……旦那ぁ。終わりましたぜ」
なんとか髪を切り終え、細かいところを整えて、茂吉はようやく背中の汗が引いた。しかし実はまだ手は震えているし心臓はバクバクしている。坊主頭というならいざ知らず、ざんぎり頭にするなど初めてのことだ。これが正解かどうかはわからない。とりあえず、鏡を渡しても男から文句はでなかったので、及第点ではあるのだろう。
「あの……切った髷はどうしますかい?」
「ああ?」
「いやね。いらないっていうんなら、こっちで処分させてもらいますがね。ばっさりといかれたお客さんの中には、親に渡すだの記念に持って帰るだのってぇおっしゃる方もいるって聞きますんでね」
そして稀にその親なり女房なりが、血相を変えて髷を持ってきて元に戻せと大騒ぎすることもあるそうだ。師匠が師匠故に、茂吉には縁がなったが、面白おかしく噂だけは耳に入ってくる。その度に師匠がしかめっツラをさらにしかめているので、茂吉はいつも野次馬根性を必死に抑えていた。
さて、どうします。茂吉はもう一度聞いた。
少々傷んで入るが、艶やかな黒髪だ。職業から様々な髪を見る機会のある茂吉だが、美丈夫は髪まで手を抜かぬものだと感心したものだ。いや、世話をやく女にはことかかないのか。
ならば妻なり情人になり渡すかもしれない。美女が駆け込んでくるかもしれない下心を隠して、茂吉はバラけそうになった髪を紐で手早くひとまとめにした。
しかし男の返答はあっさりしたものだった。
「はは。鬼の髷なんぞ後生大事に持ってるもんじゃねぇだろ。さっさと捨ててくれ」
「は?」
思わず茂吉は後ずさる。
美しい美女だの美男子だのに化けて人を襲う、話を思い出したからだ。客は、冗談と一蹴してしまえない美丈夫である。
顔を青ざめさせた茂吉に気付いたのか、客は「悪い悪い」と笑った。
「心配しなくてもとって食ったりしねぇよ。勿論、代金踏み倒ししたりもな。そもそも俺はもう鬼じゃねえ」
男は随分と短くなった髪をそっと撫でた。
「俺が鬼でなきゃならなかった理由も、鬼でいたかった理由も、無くなっちまったからなぁ」
「………はぁ」
茂吉はひとまとめににした髪を持ったまま、訳もわからず首を傾げた。
「まあ、鬼じゃなきゃ次は仏にでもなるさ」
「……………………はぁ」
やっぱりさっぱりわからない。
結局、男は茂吉相手にそれ以上話すわけでもなく、髷も捨ててくれと意思も変えずに、きっちり代金を払って帰って行った。いや、早朝に無理に店を開けさせたからと随分と色をつけた金額を置いて行ったし、それとは別に茂吉の懐に心付けをねじ込んでいった。
なんともまぁ、太っ腹な客である。
思わぬ臨時収入で懐を暖かくした茂吉は、その日はいつもは寄らない飲み屋に寄った。
ここまでならちょっとした世間話のネタだ。しかし、このおかしな客の話はここで終わらなかったのである。
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