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「おい、髪結。ここで先日、ひ……その、見慣れぬ美丈夫が髷を切りなかなかったか?」
「見慣れぬ御仁が、ここで髷を落としたの思うのだが、切ったのはお前か?」
「その……先日知人がここで髷を切ったそうなのだが、一般的に切った髪はどうしているか教えてくれぬか」等々。
自らを鬼だと称した美丈夫の来店から数日、同じようなことを聞きにくる客がちらほら、しかし途切れることなくやってくる。しかも男ばかり。
総じて、はっきりとはいわぬものの中身は同じで、そして結局のところ、切った髷を貰いたい、金は出す、というのである。
皆が求めるのは、あの「鬼の髷」だ。
茂吉は驚いたやら戸惑ったやらーー気味が悪いやら。
なんとかのらりくらりとかわしていたものの、そんなことが続いてしまっては師匠からも不審がられ、遂にはことごとく話す羽目になってしまった。とはいえ、隠し立てするほどのことはない。
明け方。夜が開け切らぬ前に役者ばりの美丈夫の髷を切った。そして、その男は自らを鬼だと称した。
言ってしまえば、ただそれだけのことである。
普段からの厳しさもあって、師匠に説明する際につっかえつっかえになってしまったのは仕方がない。町の相談役として面倒見のいいのは外用の顔で、家族や弟子には存外気の短い師匠には、何より簡潔に話すことが大事だというのは弟子入り初日で身に染みた。余計なことを言うほど相手のことを何も知らなかったのはむしろ幸運であった。
師匠は腕組みをしたまま、しどろもどろな茂吉の話を遮ることもなく聞き続け、そして重い口を開いたのはすっかり茂吉が話終えてからだった。しかも、一言だけ。
『髷はどうした?』
茂吉は何を言われたか瞬時にはわからなかった。怒鳴り声でなかったからかもしれない。しかし苛立ったようにもう一度問われ、慌てて「処分しました」と告げた。師匠は怒るでもなく、そうかと寧ろどこか安堵した表情でそれ以上何も言わなかった。不思議だったのは翌日からぱたりと鬼の髷を尋ねる客がいなくなったことだ。
おそらく師匠がどこかしらに何かしらの話をつけたのだろうけれど、それは茂吉が聞いていいものではないだろうと、尋ねることはしなかった。
それに茂吉にはもっと大事なことがあったからだ。
師匠の手前、絶対に知られてはいけない秘密。
実はまだ、鬼の髷を持っている、という事実である。
捨てるなり売るなり、それこそ、寺でも神社でも持っていって供養してもらうことも、できた。
けれど、そう思うたびに思いとどまってしまい、結局いまだあの髷は茂吉の仕事道具入れの奥で眠っている。何となく、手放すことが出来なかったのだ。
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