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ベーグル店の、屋根裏部屋
大人になった私は街の外れの丘にあるベーグル店で働きながら、その店舗の屋根裏部屋に住まわせてもらっていた。
そして私もまた父と同じく作家の道を志していた。しかし私の場合は童話ではなく大衆文学を書いている。
現在39歳。
とうとう40歳まであと一歩か。と思いながら毎朝ベッドから起き上がる。
屋根に付いた天窓の方を見ると、暗い早朝の闇がそこにあった。まだ5時くらいだろう。
私はオーナー夫婦の寝ている2階を通り抜け1階の店舗へと降りた。洗面所で手と顔を洗い髪をとかした。自分の顔を鏡で見ることにも最近は抵抗がある。
もう若いとは言えないのに、家庭を持っていないせいか歳を重ねたという実感もあまり持てていなかった。
私はエプロンをつけ、店の裏から薪を取ってくると石窯に火を入れた。
そして、昨晩仕込んでいたベーグルの生地を鍋で茹で、その後焼きに入った。
そこまでの作業を1時間で済ませると、やっと朝日が昇ってくるのが、ガラス張りの入り口の方から見えて来た。丘を下った先にある街の様子が照らし出される。
やがてベーグルが焼き上がる。
それらを石釜から取り出し、台の上に並べているとオーナーが降りて来た。
「おはようマリカさん」
オーナーは渋い声でそう言った。もとから低い声が寝起きのせいで余計に低くなっており、まるでちょっとした地響きのようだった。
「おはようございます。今日はいつもより早いのですね」
と、私は答える。
オーナーは65歳で、白い髭をたっぷりと蓄えた恰幅の良い紳士だ。
このベーグル店が長年街の人たちから愛されているのは、この人の人柄とキャラクターによるところもあるのだと思う。父とほぼ同じくらいの年齢だからか、私もこの人のことを心から慕っていた。
「ああ、そういえばもう昨日の夜で小麦粉が無くなってしまってね。すまないけれど風車小屋まで買いに行ってくれるかな」
とオーナーは言った。
「分かりました」
オーナーは店内の壁に付いている時計を見上げる。時刻は7時15分だった。後頭部に右手を置き眉間に皺を寄せた。
「しかし、風車小屋の主人もまだ寝ているか……あそこの主人も気まぐれだからな」
私はそこで、少し寄り道しておきたい場所があることを思いだした。
「いいですよ。私とりあえず見て来ますよ。まだ羽根が動いていなければどこかで時間を潰して、買ってから戻りますよ」
と言い、お使いの寄り道をする時間の口実を作った。
「そうか、じゃあお願いしても構わんかな?」
「はい。じゃああとのベーグルはお願いします」
私はオーナーに残りの仕込みを任せ、小麦粉代を預かると店を出た。
私は自転車にまたがり、小さな橋を2つ渡った先にある風車小屋を目指して漕ぎ始めた。
7月の早朝の風はまだ暑くなく、原っぱの上を自由に吹き渡っていた。世界が美しいと思えるのはいつもこんな些細な瞬間だ。
私は1つめの橋が架かった小川に差し掛かると、自転車を止めて降りた。
大体、橋からそんなに離れてないところにいつも居るのだけれど……今日は会えるだろうか。そう思っていた矢先、10メートルほど向こうの小川の中にその姿を見つけた。
「レイン!」と私は声をかける。
レインは小川に入って水遊びをしていたが、私に気がつくとこちらに駆けて来た。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら私の足元にまとわりついた。
私はポケットから袋を取り出し、その中からクッキーを取り出した。これは私が作ったイワシのすり身を混ぜて焼いたクッキーだ。
「ほら食べな」
手のひらにクッキーを乗せて差し出すと、レインは喉を豪快に鳴らしながらクッキーにむさぼりついた。
この子にレインという名を付けたのには2つ理由がある。1つは眼が水色だったことと、もう1つは猫にしては珍しく水が好きだったということ。
レインは女の子で、ターキッシュバンという種類の猫らしい。図書館にあった猫の図鑑と見比べた限り多分そう。
身体は全体的に白いのだが、耳の周りと尻尾が茶色で、尻尾には縞模様も入っていた。
そういえば私がおてんば娘だった頃、どうしても猫が飼いたくて、虫取り網をもって近所のノラ猫を追いかけ回したことがあった。
父も協力してくれたのだけれど結局は捕まえられず、引っ掻かれて腕から血をどくどくと流す父と一緒に私は泣きながら家に帰った。
家に帰ると父は、母に頭を一度パシッと叩かれた後、腕を包帯で巻いてもらっていた。
そんな事を今ふと思い出した。
とにかく、そのようにして結局子供時代には猫を飼うという夢は叶わなかったのだ。
相変わらずふがふが言いながらクッキーを食べるレインの頭を撫でてやっていると、私はあることに気がついた。
左耳の辺りに焼け焦げた傷がある。
爽やかな気持ちは消え失せ、胸の奥に怒りの感情が込み上がって来た。
それは、人間の手によって付けられた傷のようにしか見えなかったからだ。自然界の中で火傷をするなんて考えづらい。3日前に見た時にはこんな傷は無かったのだ。
クッキーを食べ終わったレインの頭や首を掻いてやりながら、他のところにも痕がないか探してみたがやはりあった。
左前足の側面と、尻尾の付け根辺りにも、焼け焦げて丸く禿げた痕があった。街の悪ガキの仕業だろうか。
出来ることならレインを家で飼ってやりたいけど、この子にとっては慣れ親しんだ自然界での生活の方が良いだろうし……
私はひとまず、レインがいつも寝床にしている辺りの草むらに、何か犯人に繋がる形跡がないか探してみた。
すると、草の隙間の向こうに赤色の何かが見えた。草をかき分けて見てみるとそれは、使い終わった手持ち用花火とマッチの空箱だった。
間違いない。レインはこれによって焼かれたんだ。
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