いつも自分の愛情に正直に

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いつも自分の愛情に正直に

   店に戻れたのは。午前10時過ぎだった。  私は、本当にごめんなさいと何度もオーナーに頭を下げた。  オーナーは、事故にでもあったのではないかと心配をしてくれていた。  私が起きた事を全て正直に話すと、オーナーはワッハッハと大笑いをした。そして、その話をそのまま小説に書いてみてはどうかと言った。  なるほど。確かに良いかもしれない。  書けたらぜひ最初に読ませて欲しいとオーナーは言った。    だから私はこの人のことが好きなのだ。 * * *  後日。  私は再びレインの元を訪ねた。  火傷痕はこの前見た時よりも治癒していた。  イワシクッキーをあげていると、後ろから声がした。 「おばちゃーん!」  振り返らなくても声で分かったがハンスだった。私が手を振りかえすとこちらまで駆けてくる。 「ハンス。今更だけどおばちゃんは止めてよ。おばちゃんだけどさ。マリカさんって呼んでよ」 「ごめんごめん」  悪びれた様子もなく少年はそう言った。 「ほら見て、レインの傷も結構治ったみたいだよ」  私はレインの左耳の火傷痕を、ハンスに見せた。 「本当だ! 良かったー」  ハンスがレインの頭をごしごしと撫でると、レインも喉を鳴らした。どうやらレインもハンスの事を気にしていないようだ。 「ねえマリカさん。また今度家にも遊びに来てよ」  ハンスはそう言った。 「いいけど。どうして?」 「マリカさんこの前ね。僕のことを暗い顔してたって言ったでしょ? それは誰かに気づいて欲しいからだって」 「うん。言ったね」 「マリカさんもね、よく寂しそうな顔してる。だからさ、時々遊ぼうよ」  あまりにも不意をついた言葉に、不覚にも私は目頭が熱くなる。  私が何も言えないでいるとハンスは続けて言った。 「マリカさんの言った、失うものがないってどういう意味だったんだろうって考えたんだ。まあよく分からなかったけどね。でもあまり良い意味じゃないって気はするんだ」  確かにそうかもしれない。  私の脳裏に父の手紙にあった言葉が過ぎった。 『愛情を捨てることは悪いことだ。いつも自分の愛情に正直に生きて行きなさい』  そして私は、目の前の無垢な少年とその傍らに佇む猫の顔を見てしまい、必死に押さえ付けていた感情がついに目から少しだけ流れ出てしまった。 「うん……じゃあまた今度、ベーグルでもお土産に訪ねるよ」  私は額に手を当て、目元を隠すようにしてそう答えた。  7月の暖かい南風が頬を撫でた。
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