父からの手紙

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父からの手紙

「願いが叶わない事が不幸なのではなくて、何かに固執して生き方を変えられないことが不幸なんだよ」  私がまだ幼い頃父はそう言った。    名も無い童話作家だった父は、生涯子供達のための物語を書き続けた。しかしそれらが出版されることは一度もなく、67歳で死んだ。  父は街の小さな帽子工房で職人として働いていた。だけど決して手取りが良いわけではないので、父と母と私の3人は1つしか部屋のない小さな家で暮らし、冬の夜には身を寄せて眠った。  父はとても子煩悩で、仕事以外の時はいつも私の側にいてくれた。よく丘になるイチジクの実を一緒に取りに行ったりもした。  当時おてんば娘だった私は、街の男の子とつかみ合いの喧嘩をよくした。  足を引っ掛けて投げるという技を父から教わっていたのでよく使った。大抵の男の子は一度地面に転ばしてやると半べそをかいてしまう。  そして「まだやる?」と私が言うと大抵黙り込むのだ。  男の子を泣かしてしまうと母にはよく怒られた。でも父は一度も怒らなかった。それどころかゲラゲラと笑い「お前の小さい頃にそっくりだ!」と母に言って、よく蹴りを入れられていた。  私はそんな父のことが好きで、父の書く物語も同じくらい好きだった。  決して夢物語ばかりではなく、それを読んだ子供たちが自立していけるように現実的な側面もちゃんと書かれていた。それは、父なりのこの国に生きる全ての子供たちへの愛だったのだと思う。  だけど、だからこそ出版社には受け入れられないことも事実であったと思う。  それでも45歳の時に一度だけ、その感性に目を止めてもらえたことはあった。  しかし出版社に足を運んだ父は先方に、児童文学ではなく大人向けの大衆文学の作家に移行してはどうか? と提案されたのだ。    そして父は顔を横に振り帰って来た。  それが生涯たった一度だけ父に訪れた、物書きとしてのチャンスだった。  それを断ったことに後悔があったのかどうかは私には分からない。だけど、当時の出版社からの来訪願いの手紙を捨てずに引き出しに取っておいたのには、きっと何らかの思いがあったのだと思う。  そんな父の、死の知らせの手紙が母から届いたのは半年ほど前のことだった。    中にはその知らせの他にもう一枚、少し古くなった手紙が入っていた。それはどうやら、父がまだ頭がしゃんとしていた時に書かれた私への手紙だった。  私はその手紙を読みしばらくの間涙を流し、簡単に帰れる距離ではなかったものの、もう2、3度くらいは会えると簡単に考えていた自分の呑気さに少し苛ついた。 「夢を捨てる事は悪いことではない。しかし愛情を捨てることは悪いことだ。向けるべき対象を間違えさえしなければ輝きは持続する。マリカ、いつも自分の愛情に正直に生きて行きなさい」  手紙の最後はそう締めくくられていた。
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