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「おかげさまで、無事にお別れすることができました」
数日後、聡子はレインに会いに祥一を訪ねていた。
「そうですか、それは良かったです」
土産に持ってきたガパオライスとズッキーニのチーズフライは店の人気メニューだ。
レインにはキャットニップを縫い込んだ魚の形のヌイグルミ。
期末試験の勉強をしていた祥一は、聡子の顔をみてこれ幸いとばかりにシャーペンを投げ出した。
お茶の用意をしながらナツが大袈裟にため息をつく。
「レインは日課のパトロールに出掛けてしまって」
窓の外へ眼をやって祥一が言った。
「でもお茶を飲んでいってね、聡子ちゃん」
とナツが椅子を引いてくれる。
聡子はよろこんでその言葉に甘えることにした。
「私には兄がいたんです」
父の実家を訪れた聡子を、物部誠一という兄が出迎えてくれた。
母を探して父の訃報を届けてくれたのも誠一だった。
「来てくれてよかった」
と涙ぐむ兄は、聡子より10才年上だった。
「父さんは僕や母に気兼ねしながら、それでもあなたの事を忘れたことはなかったんですよ」
と誠一は言った。
「母もぼくに妹がいることは承知しています。どうぞ気兼ねなくお別れしてあげてください」
そう招き入れられた父の実家は広々とした田舎家で、襖を取り払った座敷では通夜振る舞いを受ける親戚や近所の人々がしめやかなお酒をのみながら話し込んでいた。
白絹の布団に安置された父は、記憶の中の父とあまり変わりなかった。
「……パパ」
その懐かしい顔を見た途端、さっきまで家の前で入るかどうしようか迷っていた大人の聡子は消え、ただの小さな女の子に戻ってしまった。
小学校の運動会に来てほしかったことや、お父さんの似顔絵を描きましょうと画用紙を渡され、相田さんはお母さんの顔を描いてね、と毎年気を遣われた父の日のこと。
家族を描いたドラマを見ると、嘘くさいと、鼻で笑ってはいても、父親がいないことを寂しく感じない自分は感情に欠落した所があるんじゃないかと、ひそかに悩んでいた中学生の頃。
「寂しくなかったんじゃなくて、寂しいと思う気持ちに気付いていなかったんですね」
祥一がポツリと呟いた言葉が、妙に腑に落ちた。
「父の奥さんは優しい人でした。父と母のことで嫌な思いもしたんでしょうけど、私がお別れをしにきて父も喜ぶと思いますと言ってくれました」
恨み言は全部、父に持たせて明日灰にします、と過激な事を言いながら涙ぐんでいた。
「それからこれ」
父は聡子のために18年間銀行に積み立てをしてくれていた。
年払いの引き落とし日は毎年3月16日で、それは聡子の誕生日だった。
「私は父になにも上げられなかったのに」
「成長した姿を見せてあげられたじゃないですか」
祥一が言ってくれた。
「ああ、そろそろ行かなくちゃ」
お茶を飲み終え、聡子は立ち上がった。
自粛期間がとけて今日から、ライブハウスの営業がはじまる。
その準備と買い出しに行かなければならない。
ニュースではまだまだ油断は禁物と報じているが、再開できる嬉しさと安堵に浮足立つのが、どうしてもとめられない。
あわただしく暇乞いをしたあと、聡子は言った。
「レインにまた会いたかったです。ありがとうと伝えてくださいね」
「ひっかかれたのに?」
ナツが驚いた顔をする。
「レインに会うと、なんだか前向きになれるから」
18年前も今も。
「よかったら、私のお店にもいらしてください。レイン用の美味しいお魚メニューを考えておきます」
「ぜひ、遊びに行かせてもらいます」
祥一は約束した。
明るい陽射しの中、前庭の芝生を歩いてゆく聡子を見送ってからリビングに戻るとレインがソファの上で昼寝していた。
ちゃっかり土産のヌイグルミを枕にして喉を鳴らしている。
「レインが祖母ちゃんの大事にしていたらんちゅうにイタズラしようとしてお仕置きされた時、助けてくれた子って聡子さんのことだろ?」
「え、そうなの?」
ナツが目を見開いた。
「レインの初恋だって祖母ちゃんにからかわれてたよな」
「お祖母ちゃん恋バナ、好きだもんね」
ナツはレインの柔らかな背中を撫でながら言った。
「ありがとうって伝えてくれって言ってたぞ」
祥一が伝言をつたえると、レインはゴロゴロ言うのをやめて大儀そうに薄目を開けた。
それから一声、にゃーと呟いて丸くなる。
猫には時間の概念がないという。
18年前の続きが今日なら、今日の続きのどこかでまた、一人ぼっちの女の子と出会うかもしれない。
キャットニップのかぐわしい香りに包まれて、レインは幸せそうにふたたび喉を鳴らしはじめ、ナツはその隣で本を開き、祥一は残りの試験範囲を復習するため参考書に目を落とした。
とあるありふれた午後のことだった。
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