黒い猫

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 それを思い出す前に、グレーのモザイクタイルを貼った広々とした洗面所に到着した。 「ちょっと染みます」  細く流れる水の下へ聡子の手を差し出し、男の子は丁寧に傷を洗い流してくれた。  ティッシュで水を拭い、戸棚から救急箱を出してオキシドールと綿球で入念に消毒した後、短い包帯を巻いてくれる。 「まるで大けがしたみたい……」 「腫れたり痒みを感じたら病院で診察を受けてくださいね。もちろん治療にかかった費用はすべてお支払いします。本当にすみませんでした」 「あの、あまり猫ちゃんを叱らないでやってください。話し掛けたのは私の方からだったし、ただ遊んでいただけなの。タイミングが悪くて猫ちゃんのツメが当たっただけで……」 「猫が好きなんですね、レインのことそんなに庇ってくれるなんて」  男の子はおかしそうに言った。 「子どもの頃、引っ越したばかりの新しい街でなかなか友達が出来なかった私と、一緒に遊んでくれた猫に似ていたんです」  そういうと、男の子は目を見開いた。  きっと妙な事を言うな、と思ったに違いない。  話題を変えようと聡子は慌てて名前を名乗った。 「あの、私、相田聡子といいます」 「僕は安堂祥一。猫はレインで、さっきの女の子は従妹のナツです」  簡単な自己紹介をして、祥一は今度は居間へ聡子を案内してくれた。  紅茶のポットと焼き菓子の載った皿が用意された大きな6人掛けのテーブルには、ハーブを編んだ瑞々しいリースが置かれ、そのさわやかな香気があたりを浄化してくれているようだった。 「お祖母ちゃんに習ったんです」  リースを褒めると、ナツは嬉しそうに教えてくれた。 「不安な気持ちや寂しい思い出をもっている人にはラベンダーとカモミールのリースを編んであげなさいって」  子どもらしい率直さにずばりと核心を突かれ、聡子はちょっと鼻白んだ。 「なっちゃん」  熱々の紅茶をカップに注ぎながら、祥一はなぜか慌てた顔をした。 「だって……」 「いいんです。不安で寂しい気持ちだったのはなっちゃんの言うとおり。今日、離れてくらしていた父の通夜なんです。でも行こうかどうしようか迷っていて」 「迷っているというと?」 「18年も会っていない父なんです。突然娘ですって登場されたって新しいご家族やお子さんだっているかもしれないし、遺産目当てと思われるのもイヤだな、と思うとなんだか億劫で」  初対面のおそらく十代の少年を相手にする話ではないのに、熱いお茶と美味しいお菓子、それになによりナツが心を込めて作ってくれたリースの香に心がほどけて、聡子は父の事を思い出していた。  聡子の記憶の中で、父は若くて冗談が好きな陽気な人だった。  子ども相手に罪のない嘘ばかりついて、母に叱られていた姿を今は懐かしく思う。 「嘘って?」   ナツが聞くと、 「たとえば、ビールを飲むとヒゲが生える、とか」  ビールのお酌をしていた聡子に父は、だから母さんの肌はスベスベだろうとごく真面目に説明してくれた。 「私の母はお酒は好きだけど、ビールは飲まなかったの」  聡子はすっかり騙されて、チクチクしたヒゲを生やした父と母の顔を見比べてなるほど、と思ったものだ。 「ほかには?」 とナツは聞きたがった。 「飴を地面に埋めておいたら、雨をたくさん吸い込んで飴のなる木が育つんだよ、とか食べ過ぎた猫はトラになるんだよとか」 「微妙に信じてしまいそうな嘘ですね」  祥一は笑って言った。  つられて吹き出しながら、聡子は父と過ごしたわずかな日々を思い出していた。  手先が器用で、割りばしとゴムを使って二連拳銃を作ってくれたり、母に内緒で付録付きの子供雑誌を買ってくれたり。  商店街ではよくコロッケを買い喰いしたっけ。  一緒にいると楽しい人だったが、その頃から聡子の家に帰ってくるのは月に数日だけで、帰ってくる日は気まぐれだった。  聡子は父の大きな黒い車がやってこないか、ヒマさえあればベランダに張り付いていたことも思い出した。  父はお菓子がいっぱい詰まった袋を抱えて、ベランダの聡子に手を振りながら坂を上って帰ってくる。  ガサガサした大きな手を聡子の頭にのせて、「ただいま」と笑い掛けてくれる。 「そういえば、滑り台から落っこちて丸一日、目が覚めなかったことがあったんです」  目覚めたとき、父は泣いていた。  父の涙を見たのはそれが、最初で最後だった。 「そのあとしばらくして、引っ越ししちゃったからあれは一年生の時だったのかな」  母は引っ越してから今日まで、別れた理由を決して明かさなかったかわりに、父を悪く言うこともなかった。  そして「お前のことは本当に可愛がっていたんだよ」と繰り返した。  だから聡子の中の父は、妻子を捨てた薄情な男、ではなく、いつの間にか会えなくなった優しい父親としてどちらかといえば温かな記憶としてのこっている。 「お父さん、死んじゃったんだ」  あの父はもうどこにもいない。  今日を逃せば二度と、お別れする機会はないだろう。 「やっぱり私、最期に父に会ってきます」 「そうですか、それがいいですね」  決心すると、気が楽になった。  立ち上がった聡子を二人と一匹が門まで送ってくれた。   「さよなら、レイン」  門を出ようとした聡子は、屈みこんでレインの頭を撫でた。 「ぶみゃー」  レインは一声鳴いて、聡子の足の間を8の字にすり抜けた。  小さい頃、東屋から家に帰る聡子を、あの黒猫もこうやって挨拶して見送ってくれたものだ。 「まさか、ね」  あの黒猫と遊んでいたのはもう18年も前のことだ。  だけど、聡子には同じ黒猫としか思えなかった。 「いってらっしゃい」  祥一とナツが手を振る。  レインは足首に頭を押し付け、金色の瞳で聡子を見上げている。 「ありがとう、行ってきます」  そう言って、聡子はケヤキ並木の新緑が眩しい駅へつづく道へ足を踏み出した。
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