あの日の猫

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 気付いた時にはそれを拾い上げていた。  夜を飲み込みそうなほど大きな、満月に近い月に照らされてぎらり、と怪しく輝く宝石のようなそれは、腕時計のようなものだった。が、葉月の知っている腕時計とは違って、この腕時計のようなものには文字盤が存在せず、無機質な黒の液晶パネルが月明かりに照らされている。液晶パネルの下にはボタンがひとつ。 「あーちょっと、それ触らないで」 突然、背後から低い声が聞こえてきて葉月はビクッと肩を震わせた。 「すみませっ…ん?」 咄嗟に謝りながら振り返っても、そこに人はいなかった。代わりに、猫がいた。 「それ、僕のものなので。返して?」 もう一度あたりをぐるっと見回して、人がひとりもいないことを確認してやっとその声の主が猫以外ありえないことに気付く。声の主が猫以外ありえないというありえない事態を飲み込むことは容易くはなく、葉月は声を出せないまま口をぱくぱくと動かしていた。 一方で猫の方は落ち着き払っている。首元の赤い輪に、金色の鈴が揺れる。 「…」 「まあ二十一年も生きていたら話せますよ」 ちりん、と鈴の音を鳴らし、葉月の声にならない声、心の中の疑問をすべて解釈したかのように猫はするりと答える。そして、葉月が持っている機械をちょいちょい、と前足で指し示し、 「その機械、ずっと持ってたら爆発しますよ」 「え!ちょっと!」 ごっつん、からん。慌てて機械を手放してしまい、機械は重力に従って真っすぐに地面に落ちていく。今度は猫が慌てた。 「マジで落とさないで?壊れると困りますから。爆発するっていうのは嘘です。でもそれを長時間持っているとロクなことがないので」 とてとてとてと小走りして、地面に落ちた機械をひょいと持ち上げ、尻尾にくるりと巻き付けて、猫はふう、と一息ついた。 「…何者ですか?」 「猫?です」 「信じられません」 「別に信じてほしいなんて思ってませんが。あと、口、半開きですよ」 「…」 多分この人の脳内は、「信じられない」「うるさい」「こいつかわいくない」で占められているんだろうな、と猫は予測していた。 「…あの、その機械って、なんのために」 ああ、これですか、と尻尾を揺らしてみる。 「困った時や悩んでいる時に猫が助けてくれる、そんな便利な機械です。例えば、そうですね。大量の宿題が終わらない時に、ボタンを押しながら『猫の手も借りたい』と言えば、あっという間に猫が登場して、あなたの宿題をさらっと片づけちゃいます。ただ、お願いの中に『猫』というワードが必須みたいです。『招き猫』と言えば商売繁盛するし、『猫を被る』と言えば自然に清楚系控えめ女子にだってなれます、中身がどんな人でもね」 「まさか」 目の前のその顔は疑心暗鬼にまみれているものの、ほんのわずかに希望を見出しているように目をまんまるにしている。 「本当ですよ。だったら、今あなたに困りごとはありますか?解決しましょう」 そんなことあるわけない、あったとしても使う必要がない、と考えたが、ふと葉月の頭の中をよぎるものがあった。自分の目の前の猫に告げたところで仕方のないことなのではないか、それに口に出すのが恥ずかしい。でも叶うのならどうにかしたい。ええい、言ってやれ。 「恋愛成就って、できますか」 サークルの先輩のことが気になっているんですけど、好きってバレるのが怖くて話しかけられても不愛想にしてしまって。でも本当は、その先輩に可愛いって思われたいんです。 どうせ信じられない場面に出くわしているのだから叶わない前提で聞いてみる。できたらラッキー、ぐらいに。 「できます」 あっさりと、はっきりと、できます、と猫は言った。 「恋愛成就ぐらいなら簡単。先ほども言ったように、『猫を被る』でおしとやかさを演出し、『猫撫で声』で甘い声を出し、「可愛くって仕方ない」と思わせるんです。プラス、猫って存在自体がカワイイじゃないですか。猫のようなカワイイ雰囲気が、出ちゃうんです。これも恋愛をサポートするでしょう。これら、一歩間違えるとあざと過ぎますけどね。まあそこら辺は、あなたの力量が試されます」 「ほー」 「あ、まだ信じてませんね。本当ですから」 おとなしい。可愛らしい。本性はそうではなくても。 まずはそういう人と思ってもらえるだけでも、進歩なのではないか。だったら。 「だったら、すこーしだけ。貸してもらってもいいですか?」 「いいんですけど、いややはり恋愛は、自分の良さで勝負するべきものかもしれない」 葉月が食いついて初めて、猫に後悔の色が見られた。あれだけ機械の効能を自慢していたのにも関わらず、喋り過ぎたというような表情である。 「いいじゃないですか。便利で、どんな悩みも解決しちゃうんでしょう?少しの間だけでいいですから」 「…分かりました。でも本当に、少しの間だけですよ。三日後、満月の日の、日没には返しに来てくれることを約束してください」 「ありがとうございます!でも三日って、短すぎやしませんか」 「何言ってるんです、十分すぎるくらいですよ。それぐらいの効果はありますから。あとはあなたの行動力だけです」 「わかりました。ありがとうございます」 かちゃり。腕時計のようなその機械を腕にはめて、猫に頭を下げて、葉月は歩き出した。猫は、葉月の後ろ姿を不安そうに見つめていたが、やがて反対方向に向かって歩き出し、闇夜に紛れていった。  目が覚めても、勉強机の上で腕時計型の機械が静かに存在感を放っている様子を見て、葉月は、昨晩の出来事が現実であったのだと自覚した。  スマホを手に取ると、石川先輩とのLINEの履歴もきちんと残っていて、ああこっちも現実なのだと思うと、心が躍る。あとはあなたの行動力だけです。出会った猫の言葉に背中を押され、昨日のうちに石川先輩に、明日の夜、二人でご飯を食べに行きませんか?と送信したところ、なんとOKを貰えたのだ。まだ何もお願いをしていないが、早速、機械の不思議な力が発揮されているような気がした。  そして、待ち合わせの場所に二十分早く到着すると、昨晩猫に教わった通り、機械に願いを託してボタンを押した。機械に向かって「猫を被る」と口に出すと、液晶パネルに「ネコヲカブル」という文字が表示され、三秒ほどして「テキヨウサレマシタ」と切り替わる。これだけ?本当にできているのかな?不安になるけれど、正直この件に関しては相手がいて初めて確かめられるものだろう。次に、ボタンを押しながら「猫撫で声」と呟くと、先ほどと同様、「ネコナデゴエ」から、「テキヨウサレマシタ」へと切り替わる。  試しに、「あー」と声を出してみる。あれ?何だか、今までの私よりも優しい感じ、甘い感じがするのは気のせい?今度は、「あっ石川先輩、お疲れ様です」とシミュレーションする。うん、やっぱりなんか違う。確実に、可愛いとされる声だ。猫撫で声は、確かに適用されており、狙いすぎたような声でもなく、不自然過ぎず、丁度よく甘い。恐らく猫を被るの方も、なんとかなっているのだろう。うん、そう信じることにする。 「葉月ちゃん、お待たせ」 「あっ石川先輩、お疲れ様です」 うん。やっぱり違う。 「なんか葉月ちゃん、雰囲気がいつもと違う?」 「そうですか?」 咄嗟に右腕に巻き付いた機械を、左手で覆い隠す。いつもと違う風に設定している声と性格を、不審に思われたのだろうか? 「可愛いと思う。それはいつももだけど、なんかやっぱりいつもより可愛い」 良かった。怪しまれているわけではなかったのだ。猫の言っていたことは、どうやら本当だったっぽい。足が軽い。自然と口角が上がる。 その夜はじつに楽しかった。石川先輩との話は弾み、何度も「可愛い」と言ってもらえた。石川先輩がお手洗いに行っている隙に、ボタンを押して「猫舌」と口にするとその通りに葉月の舌は猫舌となり、熱々のスープを口に含んだ瞬間の「あつっ」や、ふうふう、と必死に冷ましてみる姿に対して再び「可愛い」と微笑んで頂けた。家に帰ってからも余韻に浸ったまま眠りについた。 そして朝起きてみると、猫を被るも、猫撫で声も、猫舌も消え、昨日のカワイイ葉月は、元通りの葉月になっていて落胆した。どうやら、一生ものではなく半日ほどで能力はなくなってしまうらしい。もう一度いけるかな?と、猫撫で声を試してみると、たちまちあのカワイイ声の自分が出来上がった。良かった。安堵の息を漏らす。今日は授業の後、サークルで先輩に会うので、大学に行く前に猫を被る、猫撫で声、猫舌の猫三拍子で昨日の自分を取り戻した。 葉月の性格が控えめになり、声が優しく甘くなったことに、大学の友人たちには不思議がられたが、「女子力を磨こうと思って」ということにしておいた。いつどこで石川先輩に会うかも分からないから、常に気を使っておく必要がある。 その日のサークルも、うまくやってのけた。その証拠に、石川先輩から「明日の夜、また二人でご飯行かない?」という誘いを受けたのだ。 明日の夜は、猫にこの機械を返しに行かねばならない。しかし、夜は石川先輩から誘われたのだ。断るのは勿体なさ過ぎる。それに、折角うまくいっているのに、機械を返してしまっては今まで積み上げてきたものががらがらと崩れ落ちていってしまうような気がする。そのまま、持っておいてもいいんじゃない?という黒い気持ちが渦巻き始める。しかし約束は約束だ。今自分は不思議な出来事に囲まれている。だから、返しには行かなければ。ただ───、明日の夜はどうしても石川先輩に会いたい。猫の元に行くのは、その後にしよう。 石川先輩とのデート、と呼んでもいいのだろうか、その時間を目一杯楽しみたいから、課題として出されているレポートを片付けておこうと思い立って、『猫の手も借りたい』を使った。するとどうだろう。いつも通りのスピードでのろのろとキーボードを操作していたのに、エンターを押した瞬間、レポート課題は完成していた。嘘。目を擦ってもそのレポート課題は消えない。印刷してみても、しっかりと完成形の用紙が印刷機から吐き出される。ふわふわとした気持ちでレポート課題をホッチキスで留める。 日没まであと55分 「葉月ちゃんお待たせ。今日も待たせちゃってごめんね」 「全然ですよ、気にしないでください」 「ありがとう。行こっか」 「はい」 改めて隣に並ぶと、石川先輩の横顔はきれいだ。話してみて、思う。石川先輩は優しい。きっといろんな人が、石川先輩のことが気になってしまう。私もその一人だ。こうして今、誘われて、二人でいるということは、少しでも私に気持ちが向いてくれている可能性がある、と信じていいのだろうか。石川先輩の横顔はきれいだけど、その横顔を見るたびに不安になる。不安にさせるところも含めて、きれいなのだ。  日没まであと28分 好きな人と過ごす時間。 好きな人と食べるご飯。 ぜんぶ、しあわせだ。しあわせだと実感すると同時に、ずっと、この時間が続いてほしいと心から思う。この関係性もしあわせだけど、もう一歩上の景色を見てみたい、という欲張りな気持ちも出てくる。それは、もう一歩上の、しあわせを実感できるようになるということだろうか。 「石川先輩といると、本当に楽しいです」 「本当に?それは僕も。ていうか前も思ったけれど葉月ちゃんって、マジで猫舌だよね。スープ冷ましても熱がっちゃうなんて。めちゃくちゃ可愛い」 いつでもさらっと褒められるので、その度に舞い上がってしまって、顔が熱くなる。猫舌が顔まで伝染してしまったみたいだ。 不意に、石川先輩が、深呼吸をした。 「葉月ちゃんてさ」 笑顔が一瞬、真面目な顔に戻って、さっきより少し緊張した笑顔になる。 「気になる人、いるの?」  日没まであと15分 「石川先輩こそ、どうなんですか?」 「…え?」 石川先輩は、自分に矢が向けられたことに驚いて挙動不審になった。そこが可愛い。完璧そうな人の、完璧でない瞬間に立ち会えたような。次に聞くべき言葉の前に、水を口に含む。 「気になる人、いないんですか?」 目の前に座る石川先輩は、一瞬、固まった。 「葉月ちゃん」 葉月ちゃん。はづきちゃん。 喜びが、ずうんとこみ上げてくる。嬉しい。嬉しい嬉しい。 「私も、石川先輩のこと気にな」 「どうしたの?」 石川先輩の言葉は、衝撃的そのものだった。 「どうしたの?耳の形。水の飲み方。なんか───猫みたいだよ」 ガタっと、椅子から立ち上がり、「ちょっとお手洗い」と慌てて席を離れ、外に出ようと走り出す。しかし葉月の走り方は、いつしか右足左足、それに、右手左手も使った四足歩行になっていた。どういう事態なのか、よく分からない。ただ、私は大きな間違いを犯した。 「三日後、満月の日の、日没には返しに来てくれることを約束してください」 ごめんなさい。ごめんなさい。 浮かれてました。後でもいいや、なんて考えでいました。馬鹿でした。 あの日の猫は、知っていたのだ。機械について話した後後悔の表情を見せたのは、こういう事態になることを危ぶんだからだ。何度も早く返すよう念を押したのは、私のためであったのだ。 息は荒く、慣れない走り方によってスピードはとてつもなく遅い。太陽の顔はもう、ほとんど沈んでいる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな 「だからあれほど言ったでしょう」 その表情は怒りに満ちている。しかし、その怒りは本気で葉月のことを心配していた証だ。 「ごめんなさい。浅はかでし」 「早く腕から機械を外して。僕に渡しなさい」 震える手で、使い方もままならない手で、なんとか腕から機械を外し、猫に手渡す。 すると、葉月の姿はどうやら元通りになった。猫が、大きな大きなため息をつき、小さな小さな声で「…良かった」と呟いた。 「ごめんなさい。間違っていました」 「本当です」 「馬鹿でした。私」 「何も言わないでください。そもそもこうなることを予想できたのに機械を渡した僕に責任がありますから。申し訳ない」 「ごめんなさい」 そう呟くしかなかった。 命の恩人ともいえる猫。 彼も私と同様、腕に機械をはめ、『猫』を乱用したらしい。そして満月の日、日没までに前の所有者、否、所有猫に機械を返さなかった、というか、返せなかったらしい。詳しくは教えてくれはしなかったが。その結果、彼は猫になったそうだ。 「あなたがもし日没に間に合わなかったら、あなたが猫になり、僕が人間に戻っていたというわけです。その意味で、僕はひどいことをしたと思っています。だから、あなたは謝らないで。猫は猫で、楽しいから、いいんです」 そして彼はそっと、ささやいた。 「恋愛は、自分自身それだけで勝負するものだと思います。あと、石川拓人。彼は辞めといた方がいいと思います」 葉月は立ち去り、誰もいなくなった道端を猫は歩き出す。 居場所は分かった。今度、彼に会いに行こう。 土産はそうだ。煮干しにしようかネズミにしようか。そんないいもの、石川には勿体ないか。
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